風雪の太陽:映画作品情報・あらすじ・評価|MOVIE WALKER PRESS 映画
風雪の太陽
風雪の太陽
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風雪の太陽

1973年11月10日公開、戦争
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全ヨーロッパをナチス・ドイツが席捲していた一九三一年、その中でただ一カ国自由圏を守っていたユーゴスラヴィアとドイツ軍の戦いを描く。監督はスティペ・デリッチ、脚本はブラニミール・スチェパノビッチ、ウォルフ・マンコウィッツ、ミレンコ・スモエ、オーソン・ウェルズ、セルゲイ・ボンダルチュク、撮影はトミスラフ・ピンター、音楽はミキス・テオドラキスが各々担当。出演はリチャード・バートン、イレーネ・パパス、リューバ・タディッチ、ミレナ・ドラヴィッチ、ボリス・ドボルニク、リュビシャ・サマルディッチ、ギュンター・マイスナー、アントン・ディフリングなど。

ストーリー

一九四一年七年、全ヨーロッパを制圧し、ソ連にも大進攻をかけていたナチス・ドイツに思わぬ脅威が現われた。それは、ユーゴ王朝政府が降伏したものの国民の大半が支持するヨシプ・ブロズ・チトー(R・バートン)率いるユーゴスラビア人民解放軍だった。そのため“バルバロッサ作戦”とドイツ側が称するソ連進攻は四週間も遅れ、その貴重な四週間にソ連は防衛力を強化し、ドイツ軍をソ連領奥深く引き入れる戦術を固めることができた。ユーゴはヒトラーにとって“眼の上のコブ”であった。一九四三年、予想される連合軍のイタリア上陸に対抗するため、ドイツ軍はユーゴ・パルチザンに総攻撃を開始した。だが、ドイツ軍はネレトバ河附近にパルチザンを追いつめたものの、チトーの鮮やかな戦略によって裏をかかれ、大量の損害をだした。やがて“パルチザンを一挙に、全員殺害せよ!チトーは生死にかかわらず捕えよ”というヒトラーの厳令のもと、第五期攻勢が始まった。ドイツ軍のこの飛行機、戦車隊までくりだされた攻撃のために、装備、食料、医療品が極度に不足するパルチザンは完全に包囲された。チトーはただちにセルビアへの進撃予定を変更し、ボスニアへ退くことにした。全軍二万名のうち一万人は負傷者か病人だった。ボスニアへの退路を確保するため、チトーはブチェボの高地を占領するようイワン・ダルマチアン軍に命じた。イワンは親友のニコラ(B・ジボイノビッチ)とともに部隊を率いていた勇士だった。その頃、ドイツ軍本部のリタース将軍もパルチザンの動きを察しブチェボの頂上でぶつかったが、肉弾戦では三年間戦い続けてきたユーゴ軍が圧倒的に優勢たった。チトーは退却を開始した。部隊を二つに分け、南方隊はチトーの本部におきスチェスカ河を渡るコースを、北方隊は主に負傷者を中心とし、英雄サバ・コバヤビッチ(L・タディッチ)の第三突撃隊が護衛にあたり、タラ山を越えるコースをとることになった。だが、ドイツ軍は南方隊の動きに引きずられるだろうと思っていたチトーの読みに対し、包囲網はますます厳しくなる一方だった。両軍ともドイツの爆撃に悩み、サバの北方軍はタラ山の包囲をつき破ることができず、チトーの南方隊と合流することにした。その頃、第一師団、第二師団がようやくドイツの包囲網をつき破った。チトーの本隊が早くこなければ再び分断されてしまう危険が大きい。しかしまだ到着しない北方隊を見棄てる訳にはいかなかった。一方、負傷者たちと第三突撃師団の半数はスチェスカ河を渡ったが、重傷者たちは急流を渡ることが不可能だった。彼らを救うために他のルートを通り本隊に合流しようとサバは考えた。そのために第三突撃師団の多くが生命の危険にさらされるだろうことは判っていたが、負傷者たちをチトーの本隊に届けなければならない。こうして、血を吐くような努力の末、負傷者たちと合流したチトーはドイツの新たに補強された包囲網をつき破った。ちょうど一ヵ月に渡る戦いはユーゴ軍の勝利に終った。だがこの戦いで流された血の多量さにチトーは胸がふさがれる思いだった。

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作品データ

原題
Sutjeska
製作年
1973年
製作国
ユーゴスラビア
配給
日本ヘラルド映画
初公開日
1973年11月10日
製作会社
スチェスカ・ボスナ・フィルム
ジャンル
戦争


[c]キネマ旬報社