楢山節考(1983)|MOVIE WALKER PRESS
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楢山節考(1983)

1983年4月29日公開,131分
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信州の山深い寒村を舞台に、死を目前にした人間の生き方を描く。深沢七郎の同名小説と「東北の神武たち」の映画化で、脚本・監督は「ええじゃないか」の今村昌平、撮影は栃沢正夫がそれぞれ担当。

ストーリー

※結末の記載を含むものもあります。

おりんは元気に働いていたが今年楢山まいりを迎えようとしていた。楢山まいりとは七十歳を迎えた冬には皆、楢山へ行くのが貧しい村の未来を守る為の掟であり、山の神を敬う村人の最高の信心であった。山へ行くことは死を意味し、おりんの夫、利平も母親の楢山まいりの年を迎え、その心労に負け行方不明となったのである。春。向う村からの使の塩屋が辰平の後添が居ると言って来た。おりんはこれで安心して楢山へ行けると喜ぶ。辰平にはけさ吉、とめ吉、ユキの三人の子供とクサレと村人に嫌われる利助と言う弟がいた。それがおりんの家・根っ子の全家族である。夏、楢山祭りの日、向う村から玉やんが嫁に来た。おりんは玉やんを気に入り、祭りの御馳走を振舞う。そして悩みの、年齢と相反した丈夫な歯を物置の石臼に打ちつけて割った。夜、犬のシロに夜這いをかけた利助は、自分が死んだら、村のヤッコ達を一晩ずつ娘のおえいの花婿にさせるという新屋敷の父っつあんの遺言を聞く。早秋、根っ子の家にけさ吉の嫁として、腹の大きくなった雨屋の松やんが混っていた。ある夜、目覚めたおりんは芋を持って出て行く松やんを見た。辰平はもどって来た松やんを崖から落そうとしたが腹の子を思いやめる。数日後、闇夜に「捕山様に謝るぞ!」の声がした。雨屋の父つっあんが焼松の家に豆かすを盗みに入って捕まったのである。食料を盗むことは村の重罪であった。二代続いて楢山へ謝った雨屋は、泥棒の血統として見なされ、次の日の夜、男達に縄で縛られ生き埋めにされた。その中におりんに言われ雨屋にもどっていた松やんも居た。新屋敷の父っつあんが死に、おえいは遺言を実行していたが利助だけはぬかした。飼馬のハルマツに当り散らす利助を見かね、おりんはおかぬ婆さんに身替りをたのむ。晩秋、おりんは明日山へ行くと告げ、その夜山へ行く為の儀式が始まった。夜が更けて、しぶる辰平を責め立てておりんは楢山まいりの途についた。裏山を登り七谷を越えて楢山へ向う。楢山の頂上は白骨と黒いカラスの禿げ山だ。辰平は七谷の所で、銭屋の忠やんが又やんを谷へ蹴落すのを見て茫然と立ちつくす、気が付くと雪が舞っていた。辰平は猛然と山を登り「おっ母あ、雪が降ってきたよう! 運がいいなあ、山へ行く日に」と言った。おりんは黙って頷くのだった。

作品データ

原題
The Ballad of Narayama
製作年
1983年
製作国
日本
配給
東映
上映時間
131分

[c]キネマ旬報社

映画レビュー

4.1
  • 矢口渡

    3
    2019/3/2

    冬には雪深い山村で生き抜くためには、家を継がせる長男以外は、どうでもいい。また、食べることが最も大切で、食糧を守るために、口減らしも行われる。姨捨もそのひとつ。途中、色々な動物のシーンが出てくるが、結局人間も本質的には同じ。生と死は隣り合わせ。
    貧困といえばそれまでだが、そんな環境下でも明るく生き抜く人間の姿を見て、生きることの大切さ、ありがたさなどを感じさせる映画。

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  • 晴耕雨読

    5
    2009/12/5

     日本資本主義社会の勃興期における二重構造の犠牲者である信州の農村を舞台に、楢山伝説を描いた名画です。飽衣飽食の時代に生き、グルメを謳歌する傲慢な現代人に対するメッセージは痛烈な批判でもあって、高畑勲監督と宮崎駿監督のスタジオジブリによる「火垂るの墓」同様に、人間が生きていくための最低の基本的欲求である「食べる」ことへの絶望感を描いています。「楢山節考」は日本資本主義社会国家が形成されるための犠牲者として人生を懸命に生きた人々の生活を背景にしていますが、社会主義思想のメッセージは前面には出てきません。資本主義社会における二重構造とは都市が農村を食い物にし、財閥が中小企業を犠牲にし、戊辰戦争での勝ち組である西日本が、負け組みの東北諸藩の東北地方から搾り取ることです。西村寿行・原作の「蒼茫の大地滅ぶ」では二重構造をコアに一大冒険譚を書き上げていました。今村昌平監督は信州のお話にプラスアルファーして極貧の家庭での唯一の快楽である性の描写を挿入していますが、これも西村寿行の小説と同じ商業効果も考えてのことなのでしょう。

     山深い寒村の四季と姨捨山伝説を描いた作品と言えば、恩地日出夫監督による「蕨野行」と言う名画も近年になって撮られています。「蕨野行」では姨捨山に自分一人で向かう老人が描かれていますが、「楢山節考」では母親を姨捨山に連れ出すのは長男の仕事となっています。寒村で生まれ、そこで育ち、そこから出たことも無い人々。特に女性であればそこだけで一生を終えるのでしょう。そして、息子との最初で最後の旅行が死出の旅路となります。オリジナルの木下恵介監督作品「楢山節考」のおりん役田中絹代も演技のために抜歯したそうですが、坂本スミ子も前歯を抜いています。寒村での主婦の仕事量と言えば農奴に近い艱難辛苦を味わいながらも懸命に子供たちを育ててきたでしょう。母親とは自分が食べなくても子供に腹一杯食べさせてやるものです。六十九歳のおりんは長男の後妻(あき竹城)に生きる術を全て伝授してから、長男・辰平(緒方拳)に背負われて、最初で最後の親子旅行と言う名の姥捨て山に出かけます。後に憂いを残さず、子孫のために潔く死んでいく、日本の引き際の美学をおりんの行動に感じます。一方最後の最後まで生きることに拘った辰巳柳太郎の老人の存在も滑稽でありながらも哀しく人間らしくて胸を打ちます。

     今村昌平監督の演出は、動物や昆虫が交尾する生態を記録映画のように生々しく描写し、寒村に生きる人間や鳥、小動物、昆虫に至るまでその生命力を見事に捉えています。「楢山節考」は日本繁栄のために二重構造の犠牲者になった末端に生きる人々の人間ドラマ。信州の哀しい伝説は山本薩夫監督の名作「あゝ野麦峠」での製糸工場の女工さんたちの一生と同様に、「楢山節考」の寒村の人々の一生は、先進資本主義国家による二重構造の搾取される側の開発途上国では現在進行形で繰り返されている悲劇でもあります。

     「塩屋のおとりさん運がよい 山へ行く日にゃ雪が降る♪」…自分が楢山に行く時もきっと雪が降ると信じた、おりんと息子・辰平が楢山の白骨が原で、握り飯を何度も何度もお互いに譲るシーンにセリフはなくても万感胸に迫るものがありました。

    【ビデオ・マイコレクション】鑑賞

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  • ラッキー

    5
    2007/8/16

     一般の人は、単に暗い不気味な映画としか感じないかもしれないが、ボクはこの映画を見て、ひとつの宇宙を表現していると思った。
     小さな山村の貧しい生活、そこには「うば捨て」を中心とする厳しい掟がある。悲惨で残酷なシーンもあるが、それも村人の合理的な生活の知恵なのである。厳しい掟を守りながら、たくましく生きている人々を見ていると胸が熱くなってくる。
     このことは、自然界の摂理にも似ている。魚はたくさんの卵を産むが、大部分は食べられるか死んでしまう。ライオンは他の動物を殺し、その肉を食べなければ生きていけない。「かわいそう」というのは、子供じみた感傷に過ぎない。それが、自然の摂理なのである。
     だから、この映画はただ貧しい山村の生活を描いているだけではない。人間社会の普通的テーマを暗示的に表現している。人間の生き方、人間社会のあり方、人間と自然のあり方、そして、それらを包む宇宙のあり方までを深く考えさせられる映画である。

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