仲代達矢
武田信玄
武田信玄の影武者として生きた一人の男の悲喜劇と、主人の遺言を守りながら戦場に散っていった家臣たちの辛苦を描く。脚本は「デルス・ウザーラ」の黒澤明と「ダイナマイトどんどん」の井手雅人の共同執筆、監督も同作の黒澤明、撮影は「はなれ瞽女おりん」の宮川一夫、「犬笛」の斎藤孝雄、「乱れからくり」の上田正治がそれぞれ担当。海外版は159分。
甲斐武田「風林火山」の軍が、三州街道を粛々とゆく。攻めあぐんだ三河の家康の砦、野田城を落城寸前まで追いこみながら、急に和議を結んで、ふたたび甲斐に帰るところであった。孫子の旗を立てた信玄が悠然と馬を進めている。だが、実はそれは信玄ではなかった。信玄に風貌生きうつしの弟、信廉であった。まことの信玄は、野田城攻めの一夜、勝利を目前にしながら、鉄砲で狙撃され、「われ死すとも、三年は喪を秘し、領国の備えを固め、ゆめゆめ動くな」との遺言を残し世を去った。信玄狙撃の報は各大名に伝わり、みな甲斐に注目した。信玄なくば、戦国の版図は一変する。死を秘すことは難事であった。信廉はかねてから、信玄と瓜二つの男を用意していた。その男は無頼の盗人で、磔刑になるところを、あまりの酷似に、ひろいあげて刑を免じ、養っていたのだ。口のきき方も馬の御し方も心もとないこの男は、当然武田の総大将の柄ではなかった。しかし、信玄の遺骸を秘めた大甕を朝もやの諏訪湖に葬る感動的な光景を目撃した“影の男”は、信玄の影武者になることを決意する。敵をあざむくためには、まず味方をあざむかねばならず、その事情は側近のごく僅かな者にしか、知らされなかった。信廉、勝頼らが胆を冷やすことも幾度となくあったが、なんとかきりぬけ、“影”は次第に威厳のようなものをそなえるようになっていく。こうした成行に、内心いら立っていたのは勝頼であった。信玄は世継ぎを竹丸と決めていた。嫡子ではなくとも実子でありながら、家を継げぬ不満に、形の上のみとはいえ、“影”への服従が輪をかけた。その頃、家康は武田への攻撃を計画し、兵を進めた。これにどう対処すべきか、重臣たちの評定は続き、“影”は主戦派の勝頼を制して「動くな、山は動かぬぞ」と結論を下した。心中、大いにゆれ動く勝頼は、ついに独断で兵を動かした。勝頼軍のみで落とせるとはとても思えず、武田軍はやむを得ず、「風林火山」の旗を立てて、勝頼軍の後方に陣をかまえた。戦いは激烈をきわめたが、勝利は、信玄の“影”の上におとずれた。こうしてすっかり影になりきった彼に不慮の事態が起ったのは、遺言の三年が過ぎようとする頃だった。信玄だけが御し得た荒馬「黒髪」からふり落とされたとき、川中島での刀傷がないのを側室たちに発見されてしまったのである。信玄の死は公表され、勝頼が武田の当主となり、“影”はただの男に戻った。天正三年春、勝頼は武田の全軍二万五千を率いて長篠に向う。その進軍の傍をあの“影”が身をかくしながらついてゆく。五月二十一日、信長、家康の連合軍と勝頼の武田軍との戦いの火ぶたが切られた。連合軍の鉄砲という新兵器に、伝統を誇る武田の「風林火山」の陣立てはたちまちくずれていく。戦いの中を、叫びをあげてとびだしていった男がいる。“影”である。その姿は、万雷のような銃声とともに地上にもんどりうって倒れていった。
武田信玄
武田信廉
武田勝頼
竹田竹丸
山県昌景
馬場信春
内藤昌豊
高坂弾正
原昌胤
跡部大炊助
小山田信茂
土屋宗八郎
雨宮善二郎
原甚五郎
甘利おくら
友野又市
於ゆうの方
お津彌の方
竹丸付き老女
温井平次
織田信長
丹羽長秀
森蘭丸
徳川家康
石川数正
本多平八郎
酒井忠次
上杉謙信
田口刑部
医師
百姓
傀儡子
塩売り
托鉢僧
信玄を狙撃した鉄砲足軽
監督、脚本、製作
脚本
製作
撮影
撮影
撮影
音楽
美術
編集
照明
録音
監督部チーフ
助監督
スチール
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