怪談(1964)|MOVIE WALKER PRESS
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怪談(1964)

1964年12月29日公開,183分
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小泉八雲の“怪談”より和解(黒髪)、雪女、耳無抱一、茶碗の中の話、を「甘い汗」の水木洋子が脚色「切腹」の小林正樹が監督した文芸もの。撮影もコンビの宮島義男。第38回キネマ旬報ベスト・テン第2位、第18回カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞。1965年1月6日よりロードショー。1965年2月27日より全国公開。カンヌ出品版として161分の短縮版が存在する。

ストーリー

※結末の記載を含むものもあります。

〔黒髪〕昔京都で生活に苦しんでいた武士が、貧乏に疲れ、仕官の道を捨てきれずに、妻を捨てて、遠い任地へ向った。第二の妻は、家柄、財産に恵まれていたが、我侭で冷酷な女であった。男は今更のように別れた妻を慕い、愛情の価値を知った。ある晩秋の夜、荒溌するわが家に帰った男は、針仕事をする静かな妻の姿を見て、今迄の自分をわび、妻をいたわり、一夜を共にした。夜が白白と明け男が眼をさますと、傍に寝ていた妻は髪は乱れ、頬はくぼみ、無惨な形相の経かたびらに包まれた屍であった。 〔雪女〕武蔵国の若い樵夫巳之吉は、茂作老人と森へ薪をとりに入り、吹雪に出会って、山小屋に閉じこめられた。その夜、若者は、老人が雪女に白い息を吹きかけられて殺されたのを目撃したが、巳之吉は「誰にも今夜のことを話さないように。話したら必ず殺す」と言われ助けられた。三十近くなった巳之吉は、森の帰路出会った、美しい娘お雪を妻に迎え、子供も出来て、仕合せな日々を過していた。正月も真近にひかえたある夜、子供の晴着に針を運ぶお雪の顔をみて、山小屋の雪女を思い出した巳之吉は、妻に思わずその話しを聞かせた。お雪は「それは私です」と言うと、うらみを残して吹雪の中に消えていった。 〔耳無抱一の話〕西海の波に沈んだ平家一門の供養のために建てられた赤間ケ原に、抱一という琵琶の名人がいた。夜になると、寺を抜け出し、朝ぐったりして帰って来る抱一を、不審に思った同輩が、秘に後をつけると抱一は、平家一門の墓前で恍惚として平家物語を弾じていた。平家の怨霊にとりつかれた抱一は、高貴な人の邸で琵琶を弾じていると思っていたのだ。寺の住職は、抱一の生命を心配すると、抱一の身体中に経文を書き、怨霊が迎えに来ても声を出さないよう告げた。住職の留守に迎えに来た怨霊の武士は、返事がないまま、抱一の琵琶と耳を切って持ち帰った。住職が耳に経文を書くのを忘れたのだ。以後抱一は耳無抱一と呼ばれ、その名声は遠く聞こえた。 〔茶碗の中〕中川佐渡守の家臣関内は、年始廻りの途中茶店で、出された茶碗の中に、若い男の不気味な笑い顔を見た。それは、茶碗を何度とりかえても、同じように現われた。豪胆な関内は、一気に飲みほして帰ったものの、不思議に思った。佐渡守の邸に帰った関内を、見知らぬ若い侍が訪ねて来た。その顔は、茶碗の底の不気味な顔であった。問答の末、関内は男を斬ったが、男は音もなく消えた。帰宅した関内は、三人の侍の来訪を受けた。今日の若い侍の家臣と称する三人は、来月十六日に主君が今日の恨みを晴らしに来ると告げると、関内の刀をかわして、影のように消えた。

作品データ

原題
Kwaidan
製作年
1964年
製作国
日本
配給
東宝
上映時間
183分

[c]キネマ旬報社

映画レビュー

3.8
  • rikoriko2255

    やまひで

    4.0
    2010/10/12

     まずは旗色を鮮明にしておこう。本作品はその果敢な制作意欲以って映画芸術の亢進に大いに貢献したものであること。本作にも「雪女」として登場する岸恵子が旗揚げ発起人の一人となっている映画製作プロダクション株式会社「文芸プロダクションにんじんくらぶ」、既に監督小林正樹の『人間の条件』を世に送り出していた、この会社に、このような経営的枠組みだけに納まらない大きな度量があったことに衷心より敬意を表するものである。
     その推奨の理由を挙げると、第一に、武満徹の音楽、或いは「効果音」と言った方がよいのかもしれないが、これが実に作品のテーマに合っており、本作の芸術性をひとさら高めている。第二に、小林監督がこの作品で示した色彩に対する大胆さ、それは、監督として初めてカラー作品を撮るという意気込みと溌剌さから来ているのであろうか、本作全篇にそれが感じられて実に好ましい限りである。第三に、小泉八雲の作品を映画化したということで、上述の二点と合わせて、本作は実に「文芸大作」の言葉に恥じないものとなっている。
     「怪談」というテーマ性から、超現実的、或いは非現実的世界へと映画が足を踏み入れる時、今であればCG技術で処理してしまう場面を、本作では、スタジオ撮影という中で映画を撮っていく。その映画職人の気質(かたぎ)に、スタッフのクレジットで出てくる「美術」(担当:戸田重昌)という言葉の重みを今更ながら感じ取らずにはいられない。思うに、より抽象性を高めて場面設計がしてあれば、非現実性により実感が伴ったことであろう。

     以上、褒め言葉を連ねた上で、敢えて批判すべき点をここに述べさせていただくと、それはストーリーの内容に関わる。(脚本:水木洋子)

     第一話『黒髪』は、八雲の作品集『影』から取ったもので、本来は『和解』と題するものである。ストーリーとしては、『和解』では、帰ってきた夫が捨てた元妻のところに戻り、そこで一夜を明かしたのち、実は、捨てた妻は亡くなっており、それを知って呆然として近所を彷徨っていたところ、近所の人に元妻が既に夫に捨てられた同じ年に捨てられたことを苦にして死んだことを知るという結末である。ここには、酷い仕打ちを受けたのにもかかわらず、悔いて戻ってきた夫を優しく迎えた女の亡霊の、心の寛大さが謳われている。そこにまた悲しみが一層深まるという、伝統的ストーリー性の構図が存在しているのである。一方、『黒髪』では、一夜を明かしたのちからが、女の魍魎の復讐劇に転化してしまっている。確かに、刻一刻と老化していく夫の変化ぶりには目を見張るものがあるが、観ていて、このストーリーの転化が唐突に見えたのは果たして僕だけであろうか。

     女性の心持ちが結局は優しいのであるというメッセージは、第二話の『雪女』でも同様である。自分のことを誰にも言わないという約束を破った主人公巳之吉を、雪女は、既に子供達が二人の間にあること(映画では三人、原作では十人)から、主人公を殺さずに姿を消すのであった。結末は、このように映画でも原作同様に終わるのであるが、一つ大事な台詞が映画には欠けている。原作では、雪女が変身したお雪が、言いかけた主人公を自ら促して、実は話してはならない話を主人公に話させるのである。『その人の話をしてちょうだい。……どこでお会いになったの』と。ここには、自らの幸福を捨てることになるかもしれないと予感しつつも、自分の猜疑心に囚われれて相手を質さずにはいられない女の業と言うべきものが横たわっているのである。この台詞を抜いたことにより、映画のストーリーの層が一つ浅くなったのは否めないのである。

    第三話は、これまた有名な『耳無し芳一の話』からのものである。ここでは、平家の没落を歌舞伎的様式美にまで昇華しようとする小林の意図と、この話が本来持っている滑稽味をどう扱うかという観点とが、未決定のまま、必ずしも幸福な結合を遂げていない。観客としては話の結末が分かっているのであるから、映画としてはカメラを盲目の芳一の視点を取らせる等の大胆なカメラワークを採用しても良かったのでないかと大いに不満が残ったエピソードである。

    これに対し、第四話は、そのストーリー性において秀逸である。ここでは、それまでナレーターの役割を演じた滝沢修が、明治時代の作家として登場してくる。謂わば、それまでのストーリー・テリングのメタ的部分をここに提示し、これに、ある江戸時代の未完の話がどうして未完で終わっているのかを創作上の謎として掛け、これを話の最後に人間の心理の奥底を覗かせる恐怖として観客に見せ付ける。杉村春子や中村鴈治郎などの名優をちょい役の脇役で登場させるのも豪華と言えば言える「贅沢」であろうか。




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