山椒大夫|MOVIE WALKER PRESS
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山椒大夫
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山椒大夫

1954年3月31日公開,0分
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森鴎外の原作(大正五年一月“中央公論”発表)を「唐人お吉」の依田義賢、「鯉名の銀平(1954)」の八尋不二が再解釈を加えて脚色、「祇園囃子」の溝口健二が監督にあたった。撮影宮川一夫、音楽早坂文雄と溝口作品のレギュラー・スタッフの他、建築考証に日本古建築専攻の藤原義一、衣裳考証に「西鶴一代女」その他に協力した上野芳生が加わっている。「恋文(1953)」の田中絹代、香川京子、新派の若手花柳喜章、「にごりえ」の三津田健、「にっぽん製」の菅井一郎、「心臓破りの丘」の清水将夫、「男の血祭」の進藤英太郎などが出演。

ストーリー

※結末の記載を含むものもあります。

平安朝の末期、越後の浜辺を子供連れの旅人が通りかかった。七年前、農民の窮乏を救うため鎮守府将軍に楯をつき、筑紫へ左遷された平正氏の妻玉木、その子厨子王と安寿の幼い兄妹、女中姥竹の四人である。その頃越後に横行していた人買は、言葉巧みに子供二人を母や姥竹と別の舟に乗せて引離した。姥竹は身を投げて死に母は佐渡へ売られ、子供二人は丹後の大尽山椒大夫のもとに奴隷として売られた。兄は柴刈、妹は汐汲みと苛酷な労働と残酷な私刑に苦しみながら十年の日が流れた。大夫の息子太郎は父の所業を悲んで姿を消した。佐渡から売られて来た小萩の口すさんだ歌に厨子王と安寿の名が呼ばれているのを耳にして、兄妹は母の消息を知った。安寿は厨子王に逃亡を勧め、自分は迫手を食止めるため後に残った。首尾よく兄を逃がした上で安寿は池に身を投げた。厨子王は中山国分寺にかくれ、寺僧の好意で追手の目をくらましたが、この寺僧こそは十年前姿を消した太郎であった。かくして都へ出た厨子王は関白師実の館へ直訴し、一度は捕われて投獄されたが、取調べの結果、彼が正氏の嫡子である事が分った。然し正氏はすでに配所で故人になっていた。師実は厨子王を丹後の国守に任じた。彼は着任すると、直ちに人身売買を禁じ、右大臣の私領たる大夫の財産を没収した。そして師実に辞表を提出して佐渡へ渡り、「厨子王恋しや」の歌を頼りに、落ちぶれた母親と涙の対面をした。

作品データ

原題
Sansho Dayu
製作年
1954年
製作国
日本
配給
大映
上映時間
0分

[c]キネマ旬報社

  • やまひで
    やまひで
    2.0
    2008/11/4

     本作は失敗作である、と言ったら、巨匠溝口監督に対して失礼であろうか。何れにしても本作品は僕にとっては物足りないものであったと、残念ながら言わざるを得ない。撮影も名カメラマン宮川一夫ということで、美しい画面構成と意匠に富んだカメラワークに期待していたので、この失望感は余計に強められたとも言えようか。何故か?
     原作は鴎外の『山椒大夫』である。ここで、原作と映画化のどちらがいいかというような不毛な議論をするつもりはない。其々が夫々の作品としての完結性を持つべきだと思うからである。それでも、ここで原作と脚本の内容の違いを比較することは、溝口の制作意図を明らかにするという点で肝要であると思うので、少々その相違点をここで挙げておきたい。
     本来、『さんせう太夫』は、説話として日本中世において成立した物語りであり、日本各地に謂わば伝承として伝えられたものを鴎外が大正年間に『山椒大夫』としてまとめたものである。であるから、ストーリー内には多くの奇蹟譚が含まれており、盲目になっていた母も厨子王との再会により突然目が見えるようになるというハッピー・エンドで終わるものである。この点、脚本の方はそのようは説話性を払拭しており、ストーリーの信憑性は格段に上がっている。
     時代設定については、何れも平安後期で、荘園制度がもう既に存在し、武士らしき身分もそろそろ出来かかっている時期である。安寿と厨子王の父は貴族の身分として朝廷の地方支配の代表として国衙領を統括するのに対して、山椒大夫は、私的な地方の土地支配制度たる荘園を管理する人物である。この点、脚本の方がはっきりと権力関係を提示して時代考証がよくなされている感を抱く。一方、何故に安寿と厨子王の父平正氏が筑紫国に流されたのかという点では、原作の方が説得力がある。原作では、正氏は汚職をしていると讒言をされて九州に流されるのに対して、脚本では、正氏は朝廷の意に反して困窮する農民を救おうとし、筑紫国へ左遷されたとされる。正氏は、自らが朝廷の権力機構の歯車の一部であるはずであり、いくら本人の仏教の信心が深いと言っても、朝廷の租税制度を問題視することは、自分の生存の墓穴を掘るようなものであり、自己矛盾に甚だしく、脚本のストーリーにその説得性が欠けるのである。
     それでは、安寿と厨子王の関係はどうであるか。原作では姉・弟の関係になっているのに対して、脚本では妹・兄になっている。この関係を変える必然的なストーリー上の要請があるかというと、僕が見る限り、脚本にはない。一方、原作では厨子王が逃亡する時の場面に可也の字数を割いており、如何に姉・安寿が弟・厨子王を説得したかが語られる。安寿は姉の権威で厨子王の懐疑心を圧倒し、厨子王に逃げることの可能性を信じさせるのである。「姉さんがそんなに言うなら、私も逃げられるように段々思えるようになりました。」こうして、弟は姉をおいて過酷な山椒大夫の下を逃亡するのである。この点、脚本の方の展開では、何故に兄が、妹がその後どうなるかを知りながら、逃亡するかの、その動機の説明が不十分なのである。
     なるほど、脚本のストーリーの展開上、厨子王が主役になるということで、それで兄弟関係を逆転させたと言うことか。そうであれば、主役たる厨子王の心理的機微が全般的によく描かれていない。成長して、何故に厨子王は山椒大夫の搾取の手先になったのか。それも率先してである。この点の心理描写なしに、厨子王の変心や翻心の状態を描写するだけでは、それは表層的な事態の羅列だけではないのか。このような不満の意識が纏わり付きながら、その後のストーリーの展開を追うので、結局最後まで不満感が残り、ラスト・シーンの厨子王と母との再会の感動も十分に感得できずに終わってしまった。
     「最初に掛け違えたボタンは、最後まで掛け違えたままボタンを掛けなければならなくなる。」という諺があるが、ああ、あの厨子王の心理の機微の掛け違いがなければなあと思いながら、僕は本作のエンド・ロールを観ていた。

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