ブラックホーク・ダウン|MOVIE WALKER PRESS
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ブラックホーク・ダウン

2002年3月30日公開,145分
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実際にソマリアで起こった15時間に及ぶ壮絶な激闘を、映像派監督リドリー・スコットが映画化。敵地に取り残された兵士たちの姿を、圧倒的な臨場感で描き出す戦争映画だ。

ストーリー

※結末の記載を含むものもあります。

1993年10月。ソマリアの独裁者を捕らえるために、エヴァーズマンら米軍特殊部隊が極秘に潜入。わずか1時間で終わる作戦だったが、2機のヘリが撃墜されたのをきっかけに砲火と銃弾の雨にさらされることに…。

作品データ

原題
Black Hawk Down
製作年
2001年
製作国
アメリカ
配給
東宝東和
上映時間
145分

[c]キネマ旬報社

動画配信

映画レビュー

3.7
  • rikoriko2255

    やまひで

    2.0
    2008/1/13

     命からがらモガディシュー市内の戦闘区域を撤退してきたアメリカ兵十数人は、駆け足で国連軍の管轄下にあるスポーツ競技場を目指していた。そのスポーツ競技場へのゲートに続く道路上、あと200メートルもあるであろうという所である。突然、煙に包まれた中から現地のソマリア人の子供達が数人、笑いながら、そしてアメリカ兵に手招きをしながら、アメリカ兵を先導するように道をいっしょに走り出てきた。この子供達の笑顔を、モガディシュー市内の前日の15時40分以降一昼夜をかけた市街戦の「地獄」と比べると、それは何という違いであることか。すると、道路上に、ビジネスマンなのであろう、スーツを身につけたソマリア人が携帯電話を掛けながら何か話している光景が目に入ってくる。今までの異常であるはずの戦闘状態の中に突然表出した日常的行為。しかし、それはアメリカ人の目から見た世界の捉え方であり、内戦状態の中に生きているソマリア人にとっては戦闘状態こそ「常態」であり、その常態に中で所謂「日常的」生活もまた営まれているのである。沿道には、アメリカ兵を歓迎しているのか、揶揄しているのか、これまた現地のソマリア人達が立ち並んでアメリカのエリート兵士に手を振っている。このソマリア人の世界から隔絶した世界が、実は、国連軍やアメリカ軍のベース・キャンプなのであり、駆け足で、そして疲れきって競技場のゲートをくぐりぬけたこれらアメリカ兵を出迎えてくれたのは、パキスタン人風の軍属らしき数名で、彼らは、手にお盆を持って、「死地」から逃れてきたアメリカ兵たちにコップに入った水を差し出してくれる。何という違いであろうか。安心感がどっと溢れ出る。この競技場は、ソマリアという「海」の中の絶海の孤島であり、地上の楽園である。こうして、二日に亘って繰り広げられた「モガディシューの戦い」が事実上終わった。それは、本来一時間で終わるはずであった、アメリカ派遣軍の独断専行の作戦だったのだが……。  約二時間二十分のうち二時間は戦闘場面に費やされている本作品は、その戦闘場面がまるで従軍カメラマンがその場にいて撮ったような、リアルで迫力のある作品である。ロケット弾が当たって下半身がちぎれた体や、トラックのドアを突き破ったロケット弾が胴体に突き刺さって即死する兵士、吹き飛ばされた右足の応急処置が上手くいかず大量出血で死ぬ兵士などと、戦場の現実と真実(「自分が殺られるか、殺られないか、自分が左右することは出来ない」)が余すところなく描かれており、「散花」した18人の(19人ではない)アメリカ兵の戦死の場面をほとんど個々に記録しようとしている印象である。一方、確かに自分の子供に撃たれて死ぬソマリア人民兵のある父親や、恐らく自分の夫であろう、そのやられた夫の銃を取って仇を討とうとするソマリア女性が撃たれるシーンなどがあることはあるが、基本的にはウンカの如くに押し寄せるソマリア人民兵が機銃掃射で次から次へとなぎ倒されていくという、かつてのベトナム戦争のベトコン兵の無名性とこれは同じレベルの表現である。この「モガディシューの戦い」で、それが、たとえ千人以上の死者をソマリア民兵の側で出したことが本当だとしてもである。結局はアメリカ人の視点で撮られている映画であることを頭に入れて見る必要があるだろう。  ところで、この映画の制作者は、例の言語道断の駄作、安っぽいCG技術で作られた映像に彩られた、陳腐なメロドラマ・戦争映画『パール・ハーバー』の制作者である。イギリス人監督R.スコットは、この『パール・ハーバー』の監督よりは能力があるのであろう、中々よく取りまとめており、この作品はアメリカ万歳の愛国主義映画には堕してはいない。しかし、個々の兵士の「仁義」、即ち「戦友は置き去りにしない」という極小化されたレベルのストーリーであり、この作品には、『アポカリプス・ナウ』のようなテーマの大局性の次元が欠如している。ジェノサイドの蛮行に国際連合軍が介入することの是非が語られていないのである。  登場人物の一人が映画の中で語っているように、兵隊として考えすぎないことがいいのか。つまるところは、兵隊も「父親」なのであり、「英雄」も「ウォー・ジャンキー」なども本来存在せず、兵隊とはただ戦友を助けるために戦争をしているというのか。これがこの作品のメッセージだとすれば、これは僕には物足りない。こう考えると、映画の最初のプラトンの箴言の、中途半端な引用が象徴的である。即ち、「戦争の終わりを見る者はただ死者のみなり」と。では、諸君考えてみよう。戦争に生き残った者はどうするべきであるのか、と。

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