シマロン(1931):映画作品情報・あらすじ・評価|MOVIE WALKER PRESS 映画
シマロン(1931)
シマロン(1931)
-

シマロン(1931)

1931年公開、122分
2
-
  • 上映館を探す
評価、レビューが削除されますがよろしいでしょうか?

「母」「ショウボーイ」の原作者エドナ・ファーバーの名作小説をトーキー化したもので「地獄の天使(1930)」「キスメット(1930)」のハワード・エスタブルックが脚色して台詞をつけ、「ストリート・ガール」「海魔」のウェズリー・ラッグルズが監督し、「七つの鍵」「愛の医者」のリチャード・ディックスが主演している。助演者は舞台女優だったアイリーン・ダンを始め「国際盗賊ホテル」「リリオム」のエステル・テイラー、「花嫁選手権」「妾は貴方のものなのよ」の小ウィリアム・コリナー、「怪物団」「チャンプ(1931)」のロスコー・エイツ、「特集社会面」「ギャングを追う女」のジョージ・E・ストーン、「市街」「明暗二人女」のスタンリー・フィールズ、「王様ごっこ」のエドナ・メイ・オリヴァー他である。カメラはパ社時代からディックス映画をクランクしたエドワード・クロンジェガーの担任である。

配信で観る

ストーリー

1889年4月12日。それはオクラホマに於いて競争によって土地の分割占有権を決める日であった。数千の各種の車馬がその競争に加わった。ヤンシー・クラバットは、悪徳一味の情婦であるディクシー・リーという娘に欺かれ、欲しくもない土地を先有させられてしまった。彼は故郷のウィチタに帰り、オクラホマに移住することを力説したが、彼の意見に同意をしたものは彼の妻セイプラ一人であった。斯くて家族の反対を押し切ったクラバット夫婦は総領息子のシムと、イザイアという黒人の子供とだけを連れて九日九晩の旅を続けた後にオセイジの町に辿り着いた。ヤンシーはこの町で新聞社を起こす意志であったが、最近この町で新聞を発行していた者が何者かに殺害せられたと聞き、日頃正義の魂に燃ゆる彼は騒然として暴力団に抗し益々そこに新聞社を起こす意志を固めた。これ以後殺害事件の容疑者と目せられているロン・ヨウンディスと彼との間には明らさまなる敵視状態が続いたが、日曜日ヤンシーの開いた説教の集会に於いてロンはヤンシーの反り弾で殺された。一年後、オセイジの町に於いてヤンシーの新聞は確たる地歩を占め、これと時を同じうして彼は一娘をもうけた。この年キッドと異名をとった強賊が部下と共にこの町の銀行を襲撃したが彼は単身それを迎え悪戦の後に彼らを撃減した。キッドには懸賞金一万ドルが懸かっていたのであるが彼はそれをこともなげに突き返した。三年後、じっとしていることの出来ぬヤンシーは突然風のように妻と子を残してこの町を去って行ったが、彼が1898年に帰って来た時には米西戦争の軍服を着ていた。が、彼は今はこの町の政界に於いても有力の一人となっていた妻との体面をすます間もなく、直ちに公衆指弾の的となって法廷に立たされていたディキシー・リーの弁護に立ち、雄弁と正義感とを以て彼女を無罪放免となさしめた。それから九年の後、1907年、オクラホマは合衆国に合併されたが、インディアンたちは石油から得た金により富有であったので白人と婚することを得、従って彼らは社会的にも白人と同じ地位を占むるに至った。これを見たヤンシーは己がインディアンのために尽くす仕事も終わったことを知り、再び他に己が指名を果たす地を求めこの地を去って行った。それからまた年が経って、オクラホマ開拓者ヤンシー・クラバットの像がオセイジの町で除幕された時、今は年老いたセイプラは傍らに愛息愛娘を伴って晴れの式場に臨んだが、未だに行方の知れぬ夫ヤンシーを想もっては自ら感慨の禁じ難いものがあった。その時、石油工場に於いて多勢の人々を助けるために犠牲となった重傷者の出た知らせがあった。その天晴れな男はヤンシー爺として人に知られている老人であると聞きセイブラは急ぎそのお式場に駆けつけたが、それは彼女が久しく見なかった夫ヤンシーの最後を見るだけのものであった。

映画レビュー

まだレビューはありません。
レビューを投稿してみませんか?

コラム・インタビュー・イベント

ニュース

作品データ

原題
Cimarron
製作年
1931年
製作国
アメリカ
初公開日
1931年
上映時間
122分
製作会社
RKOラジオ


[c]キネマ旬報社