零戦黒雲一家|MOVIE WALKER PRESS
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零戦黒雲一家

1962年8月12日公開,109分
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平凡所載萱沼洋の原作から「霧の夜の男」の星川清司と「上を向いて歩こう」の舛田利雄が共同で脚色、舛田利雄が監督したアクションもの。撮影もコンビの山崎善弘。

ストーリー

※結末の記載を含むものもあります。

谷村海軍飛行中尉がソロモン諸島の一つ、バルテ島に分遣航空隊長として赴任したのは、日本軍がガダルカナル撤退の後で、米軍の攻撃は日増しに激烈を極めていた。着陸寸前、対空機関銃の一斉射撃を浴びて「歓迎花火ご苦労」と谷村は豪快に笑った。分遣隊の隊員たちは軍人というよりならず者と呼んだ方がふさわしく、上官暴行罪で少尉から上等飛行兵曹に下げられた八雲が指揮をとっていた。ところで、島には二十六名の設営隊も同居していた。隊長は初老の海野技術将校である。ある日、半裸の美女--奈美が筏にのって流れ着いたため、谷村は直ちに営倉に入れた。折も折、操縦カン恐怖症の柴田が八雲の零戦に乗って飛び立ったが、エヤ・コブラの敵編隊の餌食になった。部下の弔合戦とばかり八雲機と出動した谷村は敵機をバタバタと射落し、残った一機を誘導着陸させて生け捕るという放れ業を見せた。しかし、谷村は無断で飛んだ八雲に営倉入りを命じた。四つの営倉は奈美、コブラのタワーズ中尉、設営隊の鉄砲勘太、それに八雲とで満員だ。鉄格子から見つめ合う八雲と奈美はかって恋仲だったのである。やがて物量を誇る米軍の空襲は一段と激しく、海坊主ら十三人が戦死した。そんなとき、空襲のどさくさ紛れにタワーズが格納庫に火を放った。駈けつけた谷村は咄嗟の機転で、谷村機と八雲機を安全地帯に誘導した。南洋ゴロの崔は自らの命を捨ててガソリンかんの爆発を防いだ。が再度の空襲で航空隊の施設は、殆どが吹っ飛んだ。今は二十四人と、零戦が二機しかない。谷村が生き残りの部下を集めたとき、八雲は谷村と生死を共にすると誓った。「それでこそ、黒雲一家だ」と、谷村の眼に涙が光る。翌日、島の沖に味方の潜水艦が浮上した。部下全員を乗せてから、谷村機と八雲機は敵の大編隊めがけて突入していった……。

作品データ

原題
The Zero Fighter
製作年
1962年
製作国
日本
配給
日活
上映時間
109分

[c]キネマ旬報社

  • rikoriko2255

    やまひで

    3.0
    2020/8/28

     日活製作で、石原裕次郎主演となれば、青春・アクションものと相場が決まっていて、本作も同様である。但し、本作は戦争映画であり、戦争アクションものの反道徳性を、基本的に孕んでいる。

    CGがまだない時代だから、模型を使っての空中戦の撮影と編集は大変だったろうし、わざわざ南洋風の島を探し出し、そこにロケに行き、実際に軍用機を飛ばして撮影して資金が掛かったことも想像できる。その分、映画の中盤の山となる、アメリカ軍双発中型爆撃機による基地爆撃の場面はそれなりに迫力がある。ただ、あれだけ低空で爆弾を投下した割には、爆発までのタイミングが掛かりすぎるように観ていて思われたのも、一言ここに記しておく必要があるだろう。(実際に撮影してある「零戦」だという戦闘機も素人目にも少々「肥満」ぎみに見えたことはおくとしても。)

    さて、ストーリーであるが、ある零戦乗りの海軍中尉(石原)が、本部と連絡が取れない航空隊分遣隊の統率にラバウルから1943年8月に送り込まれるというところから始まる。その中尉の誠実な敢闘精神が航空小隊を最後にはまとめ上げ、この中尉が残した精神が、その時分遣隊の一員であり、幸運にも基地から脱出した後、戦後海上自衛隊のパイロットになっている浜田光夫の精神の中に、この美しいニッポンとそこに住む愛すべき人々を守るために、生き続けていく。(ここは既に映画の冒頭に明らかにされることで、ネタバレではないので、ご安心あれ。)

    こう書くと、如何にもプロパガンダ映画の感じだが、戦争アクションものの反道徳性をある程度削ぐプロットがある。一つは、石原中尉が統率すべき隊員が帝国海軍の規律に、はまりきれない、「野外動物園」にいる「生きた英霊」であり、謂わば兵隊やくざである点である。ここから、題名の「黒雲一家」が出てくる。そして、隊員の一人が朝鮮人整備工のプロットがあり、更に極めつけは、本作紅一点の「熟れた」渡辺美佐子演じる「からゆきさん」、即ち、南方に出た慰安婦がどこからともなく波間に漂って、島に流されてくるという「おまけ」のプロットまである点である。こうして、本作、単純な戦争アクションものの反道徳性をある程度逃れていると言える。

    さて、最後に一言。映画では、このラバウルの前進基地がある島を、「バルテ島」としてある。興味があって、この島がどこにあるか調べると、この島、実は、「バラレBallale島」という。あのガダルカナル島があるソロモン諸島西部、ショートランド諸島の一つの島で、ショートランド島の東、そこから北上すると、パプアニューギニアの、あの山本五十六が戦死したブーゲンビル島に近く、そこにあるブイン飛行場も、最初に挙げた当時の台詞「トラック快晴、ラバウル曇り、 ブイン、バラレは弾の雨」で分かる通り、バラレ飛行場同様に、ガダルカナルの戦いに伴い、前進基地として、アメリカ軍の空襲に晒されたのであった。

    さて、このバラレ飛行場は、海軍の第十八設営隊が、1942年11月初旬に入り、飛行場建設に従事して作らたものである。ここには、呉第六特別陸戦隊、 同高角砲中隊などが配置され、また、 第十一航空艦隊第二一航空戦隊の零戦戦闘機隊第二五二海軍航空隊の一部が、43年1月末から約1ヶ月間駐屯していた。石原中尉が所属しているという第二〇二海軍航空隊はラバウルには実際に進出していたようである。アメリカ軍の所謂「飛び石戦法」で、不必要な島には上陸せず、補給を断たせて、無効力化する対象にこの島も当てられ、結局敗戦まで日本軍が「確保」出来た島である。

    問題は、1945年11月にオーストラリア軍がここに進駐すると、共同墓地を発見したことである。436の遺体が掘り出され、それが英軍の兵士であることが判明する。調査結果によると、シンガポールの戦いで捕虜になった英軍兵士、第35対空軽砲連隊を中心に、当時駐屯中の沿岸警備連隊などの兵士約600名が、飛行場設営のために、バラレ島に送られたらしい。ラバウルで、病気のため更に搬送できない82名を降ろし(このうちの18名が終戦まで生き残る)、その残りの517(或いは512)名がバラレ島に42年11月に到着する。彼らは、飛行場建設に従事させられたわけだが、43年1月からは、アメリカ軍の爆撃が始まり、この爆撃で亡くなる英軍兵士が数多く出たというが、それでも島で生き残った英軍兵士は、同年6月までには処刑されたのではないかと、英軍当局では判断しているという。彼らは、英国軍側から、”Gunners 600 Party“と呼ばれている。合掌

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