宇野維正が『空白』に見た、この理不尽な世界で“モンスター”になることを踏みとどませるもの|最新の映画ニュースならMOVIE WALKER PRESS
宇野維正が『空白』に見た、この理不尽な世界で“モンスター”になることを踏みとどませるもの

コラム

宇野維正が『空白』に見た、この理不尽な世界で“モンスター”になることを踏みとどませるもの

栄えているわけではないが、特に寂れているわけでもない漁港のある小さな町。そんな町の漁師やスーパーの店員たちの顔つきや所作。車道沿いに無遠慮に設置された地元政治家の看板。吉田恵輔作品の一貫した美点は、一瞬も不自然なやりとりがない口語の機微と間が完璧にコントロールされた台詞回しにあるが、本作はその背景の描写においても徹底的にリアルさを追求していて、物語に没入する上でノイズを完全に排除している(それを本気で目指して、実現している日本の実写映画はとても少ない)。

【写真を見る】吉田恵輔監督が『空白』で描く、「この世界そのものの理不尽さ」とは
【写真を見る】吉田恵輔監督が『空白』で描く、「この世界そのものの理不尽さ」とは[c] 2021 『空白』製作委員会

そんな周到にノイズキャンセリングされた、登場人物たちの心の声まで聞こえてくるような澄み切った『空白』(公開中)の小さな世界の中心にいるのは、二人の男だ。一人は、おそらくそのモラハラ体質がもたらしたのだろう、鬱病を患った妻に去られて、中学生の娘と二人暮らしをしている気性の荒い漁師。もう一人は、父が急逝したことで、家業であるスーパーの経営を成り行きで継ぐことになった青年。二人は、ある重大な事故を巡って被害者のポジションと加害者のポジションを背負うことになるのだが、物語の主軸となるのは被害者と加害者のわかりやすい対立でもなければ、被害者による加害者への復讐でもない。

吉田恵輔監督は古谷実原作の映画化作品『ヒメアノ〜ル』(16)で、日常に突然襲いかかる理不尽な暴力をこれ以上ないほど鮮烈に描いていた。今村昌平や北野武といった国際的に評価されてきた先達からの影響もあるのか、あるいは少ない製作予算の落とし所としてちょうどいいのか、日本の(特に若いインディーズの)映画作家はこの「理不尽な暴力」というモチーフを長年飽きもせずにずっとコスり続けてきた。吉田恵輔のようなユーモアのセンスが長けた作家もその風土には逆らえないのかと思いきや、『ヒメアノ〜ル』でも得意の物語構造の仕掛けを駆使して、これまで量産され続けてきた「理不尽な暴力モノ」に対するオルタナティブを見事に提示していた。

過剰なマスコミ報道や、SNSでの不確かな情報拡散にも焦点が当てられている本作
過剰なマスコミ報道や、SNSでの不確かな情報拡散にも焦点が当てられている本作[c] 2021 『空白』製作委員会

不慮の事故という暴力。言葉の暴力。マスコミ報道の暴力。ネットや近隣住民による過剰な社会的制裁の暴力。『空白』においても暴力は物語をドライブさせる主要な動力となっているが、それは偶然と必然がいくつも積み重なった末の暴力であって「理不尽な暴力」ではない。『空白』は「理不尽な暴力」という部分的にクローズアップされた事象ではなく、同じ理不尽さでも「この世界そのものの理不尽さ」とでも言うべき全体を描こうとしている野心的な作品だ。

「この世界そのものの理不尽さ」を描くにあたって、『空白』にはこれまでの吉田恵輔作品を特徴づけてきた――あの凄惨極まりない『ヒメアノ〜ル』にさえあった――絶妙なユーモアの要素が意図的に削ぎ落とされている。前作『BLUE/ブルー』(21)にもその予兆はあったものの、ここまで「遊び」のシーンや会話のない吉田恵輔作品は初めてだ。本作の序盤で起こる悲劇(その「アクション」描写の異様なリアルさにも注目してほしい)を思えば、その後の展開にユーモアを挟む余地などないという理解も可能だが、それ以上に、我々の生活においてユーモアがもたらす異化作用はこの世界がそれでも信頼に足るものである時には有用かもしれないが、その信頼すら消え失せてしまった世界を描こうとしているのだと自分は解釈した。


『空白』で描かれるのは、誰しもに襲い掛かる可能性がある理不尽さ
『空白』で描かれるのは、誰しもに襲い掛かる可能性がある理不尽さ[c] 2021 『空白』製作委員会

20世紀英国の経済学者コーリン・クラークの産業分類では、本作の主人公が従事している漁業は第一次産業(自然界に働きかけて直接に富を取得する産業)に分類される。産業の情報化によって我々の仕事はますます手応えらしい手応えを失っていて、資本の利益が労働者に満足に配分されず株主ばかりに偏っているこの現代社会にあって、生業としての実感をダイレクトに得ることができる第一次産業――であるはずなのに、スクリーンに何度か映る主人公の船の魚網には、いつもゴミ屑ばかりが引っかかっている。主人公が職業的に困窮している様子はないのでここは深読みかもしれないが、そんな描写も、この世界への信頼が揺らいでいることを象徴しているのかもしれない。

通常、悲劇を描く作品では、幸福だった時間との対比によってその悲劇性が強調されるわけだが、『空白』では古田新太演じる漁師も、松坂桃李演じる町のスーパーの経営者も、そもそも物語の始まりの時点でもまったく幸福な人生を送れてはいない。彼らの世界への信頼は最初から揺らいでいるのに、そこに追い討ちをかけるように理不尽な出来事が襲いかかる。そんな状況にあって、モンスター化(本作で最もゾッとさせられたのは、古田新太が憑依したかのように弁当屋にクレーム電話をかけて怒号を上げる松坂桃李のシーンだった)していく彼らを誰が責められるだろう。

添田や社会的に追い詰められた青柳もまた、“モンスター化”の片鱗を見せる
添田や社会的に追い詰められた青柳もまた、“モンスター化”の片鱗を見せる[c] 2021 『空白』製作委員会

『空白』の誠実さは、そんな彼らに手を差し伸べるのが「誰か」ではなく、結局は彼ら自身が見出した「時間」や「静寂」でしかないことだ。理不尽なこの世界の中で、それでも彼らは生き続けることを選択し、静かな生活の中から何かを聞き取ろうとする。徹底してリアルであるという点において、吉田恵輔作品特有の「ウェルメイドさ」が過去最高に極まった本作の世界に入り込んで、我々もまた、彼らと同じように耳を澄ますことになる。映画館で観る『空白』は、そんな得難い体験をもたらしてくれる。

文/宇野維正

※吉田恵輔の「吉」は“つちよし”が正式表記


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