マルコ・ベロッキオ監督「イーダ・ダルセルを描いたのは彼女がヒーローだからだ」|最新の映画ニュースならMOVIE WALKER PRESS
マルコ・ベロッキオ監督「イーダ・ダルセルを描いたのは彼女がヒーローだからだ」

インタビュー

マルコ・ベロッキオ監督「イーダ・ダルセルを描いたのは彼女がヒーローだからだ」

マルコ・ベロッキオ監督にイタリア映画最大の栄誉、ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞監督賞をもたらした『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』が5月28日(土)に公開を迎える(全国順次公開)。本作は2009年のカンヌ国際映画祭、イタリア映画祭2010(当時の邦題は『勝利を』)でも上映され、絶賛された作品だ。主人公はイーダ・ダルセル。イタリア近現代史における最大の問題人物ベニート・ムッソリーニの愛人にして、歴史の闇に葬り去られようとした女性だ。監督はなぜ彼女を描こうとしたのか?

――何がきっかけでイーダ・ダルセルのことを知ったのですか?

「数年前に、ドキュメンタリー『Il Segreto di Mussolini』(ムッソリーニの秘密)をテレビで見るまで、彼女のことは知らなかったんだ。ムッソリーニとの間に子をもうけたイーダ・ダルセルは、非常に特別な女性だとその時すぐに感じたよ。政府があらゆる手段を使って全ての痕跡を消し去ろうとしたにもかかわらず、最初から悲劇に終わる最後まで、真実を隠すことを拒んだんだからね。ムッソリーニの“妻と息子”というのは、物理的な証拠だけでなく、その存在そのものを消さなければならないほどにまで、隠し通さなければならないスキャンダルだった。実際、ふたりともこの世を去るまで精神病院に閉じ込められた。しかし、イーダが育ったトレントへ行ってみると、公式の歴史に含まれていないこの悲劇を人々が未だにはっきり覚えているので驚かされた。また、このストーリーに関しては、2冊の本に様々な記録と証言が載っている(マルコ・ゼニ『La moglie di Mussolini』、アルフレド・ピエロニ『Il figlio segreto del duce』)。その中には、イーダがローマ教皇を含む最高権力者たち(ムッソリーニも含まれる)に対し、自分が彼の正当な妻であり、長男の母親であることを認知してほしいと懇願した大量の手紙などが含まれている。また、ムッソリーニからの返事も何通かあるんだよ」

――今回、このストーリーに注目した理由は?

「私はファシスト政権の悪にハイライトを当てたり、それを暴露することには興味はなかったんだ。だが、イーダという女性は、どんな妥協もしようとしなかった。そのことにとても胸を打たれた。日陰の身として生きることに同意した方が楽だっただろうし、そうすればおそらくは充分すぎるほどの報酬をもらえただろう。その道を選んだムッソリーニの愛人はとても多かったし、他にも歴史上で大きな権力を誇った愛人たちが中にはいる。だが、イーダはそれを受け入れようとしなかった。彼女は自分自身が何者なのかを訴えたかった。彼女が手紙の中で書いたように、深く愛し、財産を含めて全てを捧げた男の裏切りを、彼女は受け入れるわけにはいかなかったんだ。だが、統帥になったムッソリーニは、そんな古い恋には終止符を打たねばならなかった。特に、当時の政府は1929年のラテラノ条約に向けてカトリック教会との関係を強化しようとしていたため、それを危機にさらすのは避けたかったんだ。実際、その政策は非常にうまくいき、彼は後に教皇から『神が遣わされた男』とまで呼ばれるようになっている。こうして、イーダ母子は、結婚と息子の出生記録と共に歴史から消されることになり、息子の名前も変えられた。ふたりはもはや存在しなかったのだ」

――イーダ・ダルセルという女性に惹かれた理由は?

「私がこの女性を映画で描きたかった理由はごくシンプルだ。イーダ・ダルセルはヒーローだからだ。何年もの間、彼女は完全に独りぼっちだった。彼女は独りで戦った。統帥に対してだけでなく、おそらく自分では気づかないで、あるいは不本意ながらも、イタリア国民のほとんど全員を敵に回したのだ。彼女は一般的な基準で物事の判断を下すような人間ではなかった。干渉主義者、反連邦主義、個性的で革新的という一種の英雄的な資質を持つ、若い頃のムッソリーニの政治的思想を彼女は本質的に共有していた。まだ無名だったその若者に彼女は心底ほれ込んだ。他の誰からも相手にされなかった彼を、彼女は愛した。無一文になり、非難され、侮辱された彼を彼女は庇ったのだ。その後、立場は逆転する。統帥となった彼を誰もが愛するようになると、彼女は締め出され、誰もが彼女に背を向けた。だが、まだ無謀な恋から抜け出せず、誰が有利かに気づけなかった彼女は、イタリア全体を敵に回した。当時のイタリアはファシスト主義を掲げ、ムッソリーニの天下だったのに、だ。統帥に立ち向かった勇気と、妥協を拒絶し、最後まで反逆者であったイーダという女性の人生を考えると、ギリシャ神話に登場するアンティゴネーや、アイーダを考えずにはいられない。アンティゴネーのような悲劇のヒロインたちを連想させると共に、アイーダのようなイタリアのメロドラマのヒロインを彷彿とさせるんだ。その意味では、この映画もまた、一人の無名のイタリア人女性の精神的な強さを描いたメロドラマでもある。彼女はどんな権力にも屈せず、ある意味では、実際に勝ったのは彼女だ。ムッソリーニは女性関係が派手で、たくさんの愛人がいたと言われている。その点で彼はとても魅力的だったらしいね。だが、少なくとも知られている限りでは、イーダ以外には誰も権力に刃向かったり、自分のために何かを要求しようとした者はいなかった。他の誰もが妥協することを拒まず、充分な補償や特権と引き換えに離縁を受け入れることを拒まなかった。その点でイーダはユニークだった。ムッソリーニには他にも反抗的な愛人はいただろうが、今、世に知られているのはイーダだけだ。彼女には、世間に向かって訴えるだけの強さと勇気と、ある意味の愚かさがあったからだ。それゆえに、私にとって彼女のストーリーには歴史的な価値がある。現代の私たちから見ると、ファシズムは馬鹿馬鹿しく、不条理で笑ってしまうようなものだが、彼女の人生を知ることにより、ファシズムは笑い話ではなく、残酷な独裁政治だということを思い出さざるをえない。その狂気の策略を実行するためなら、その邪魔になる者は誰でも迷わず踏みつぶし、無数の罪なき人々の命を犠牲にした体制なのだということを」

本作の原題は『Vincere』、“勝つ”を意味する動詞だ。イーダは閉じ込められた精神病院でその生涯を閉じた。だが、監督が述べたように、権力に屈することなく一人で立ち向かった彼女こそが勝者だったのではないだろうか。本作でイーダを演じたのはジョヴァンナ・メッゾジョルノ。その力強い演技を劇場で見ながら、じっくり考えてもらいたい。【Movie Walker】

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