イザベル・アジャーニ
Adele
フランス近世の文豪ビクトル・ユーゴーの次女アデルの激しい恋を描く恋愛映画。製作・監督は「アメリカの夜」のフランソワ・トリュフォー、脚本はトリュフォーとジャン・グリュオー、シュザンヌ・シフマンの共同、原作はフランセス・V・ギールの「アデル・ユーゴーの日記」(Journal of Adele Hugo)、撮影はネストール・アルメンドロス、音楽はモーリス・ジョーベール、編集はヤン・デデが各々担当。出演はイザベル・アジャーニ、ブルース・ロビンソン、シルヴィア・マリオット、ジョゼフ・ブラッチリーなど。
一八六三年、フランスではナポレオン三世が勢力を持ち始め、ここ新大陸では北米に内乱(南北戦争)が勃発した頃、英国は植民地カナダに派兵し、海外からの入国チェックをしていた。港町アリファックスに一人のうら若き乙女が上陸した。名をアデル(イザベル・アジャーニ)といい、下宿先サンダース家に身を寄せた。アデルは翌日、公証人を訪ね、英国騎兵中尉アルバート・ピンンン(ブルース・ロビンソン)の捜索・調査を依頼した。彼こそアデルが思ってやまぬ初恋の男であり、英領ガーンジー島の両親のもとを出奔し、たった一人異国の地を踏んだのも、ひたすら中尉に逢いたいが一心からだった。数日後、サンダース家の主人が英国軍の歓迎パーティへ出席することを知らされたアデルは、ピンソンへの手紙を託したが、しかしそれはすげなく無視された。アデルはガーンジー島の両親のもとへとせっせと手紙を書き送った。父は「ノートルダム・ド・パリ」「レ・ミゼラブル」を著わした大文豪ビクトル・ユーゴーで、手紙の内容はピンンンへの綿々たる追慕の念、そして生活費の無心だった。数日後、よもやと思われるピンソンが下宿を訪ねてきた。高鳴る胸の動悸を懸命に押え、精一杯の身づくろいをしてアデルは彼の前に姿を現わし、執拗に二人の愛の確認を迫るのだった。しかし、心はすでに彼女にないピンソンの態度は、ツレなかった。泣き叫び必死に彼の心をつなぎとめようとする哀れな女の心情がかえって男の気持ちを遊離させた。精神的疲労がたび重なったアデルはウィスラー氏(ジョゼフ・ブラッチリー)が経営する本屋の前で倒れた。サンダース夫人(シルヴィア・マリオット)の看病を受けながら病床から両親へ宛てて手紙を書く毎日が続いた。「このたび、ピンソン中尉と婚約しました……」。折り返し、愛娘の一途な気持を慈しむ父ユーゴーから結婚承諾書が届いた。しかし、新聞に報道されたことにより、ピンソンは上官の叱責を受け、何もかもアデルの仕組んだウソとバレたのは間もなくだった。増々、常軌を逸した行動に走るアデル。催眠術師を使って彼の心を戻そうと画策したり、ピンソンの某令嬢との結婚にも横槍を入れた。そんなとき、アデルの母がブラッセルで死亡し、同時にピンソンの隊にカリブ海バルバドス島への派遣命令が下された。あくまでも男の後を追うアデル。ボロ布のような姿で島の通りをふらつく彼女には、まさに鬼気迫るものがあった。一方、アデルという女の執念深さに驚く新婚間もないピンソン。しかし、熱帯の土地で熱病に襲われたアデルが、再びピンソンと逢いまみえたとき、彼女は既に意識がなかった。数日後、アデルはユーゴーを知る土地の夫人に伴われフランスに帰ってきた。ヨーロッパではさまざまな変化があった。ナポレオン三世の失脚により、ユーゴーの帰国が可能になり、彼は十八年間の亡命の後、パリに帰りついたのだ。父と娘は再会し、彼女をサン=マンデの精神病院に入れた。その後アデルはその病院で四十年間を過ごし符号化した日記を書き続けた。父ユーゴーは一八八五年五月二二日“黒い光が見える”といいながら死んだ。フランス中が深い悲しみに沈み、遺体は凱旋門の下に一晩中安置され、翌日は二百万のパリ市民がエトワール広場からパンティオンまで柩のあとに続いた。その娘アデルはヨーロッパが二つに分かれて戦った第二次大戦のさなかの一九一五年四月二五日、ひっそりと死んでいった。
監督、脚本、製作
脚本
脚本
原作
撮影
音楽
編集
字幕監修
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