岡田茉莉子
島村勢以
母との愛憎を軸に、師匠・恩師・画塾生など三人の男たちと関わりながら、日本画家として大成していく女の生きざまを描く。宮尾登美子の同名小説の映画化で、脚本は「誘拐報道」の松田寛夫、監督は「人生劇場(1983)」の中島貞夫、撮影は「白蛇抄」の森田富士郎がそれぞれ担当。
安政五年、洛北・大宮村の貧しい農家の娘・勢以は、京都の葉茶屋ちきりやに養女に出された。彼女が二十歳の年に、養父母・島村夫婦が相次いで世を去った。翌明治三年、勢以は婿養子をとったが、五年後には夫に先立たれ、二十六歳という女盛りで二児をかかえた後家になった。それからの勢以は、長女・志満と次女・津也を女手ひとつで育て、生計を支えるために、自ら女を捨てようとする。やがて時は流れ、絵に熱中しはじめた津也は、図画の西内先生のすすめもあって、小学校を卒業すると京でも有数の松溪画塾へ通うことになった。明治二十三年、第三回内国観業博覧会に津也が出品した「四季美人図」が一等褒状を射とめた。すでに師・松溪から「松翠」の雅号を授かっている津也は、早くも天才少女と騒がれる身となっており、勢以も津也の絵の情熱と才能を認めざるを得なくなった。その頃、西内先生がヨーロッパへ留学することになり、津也にとって大きな悲しみとなる。また、村上徳二という青年が松溪塾に入塾し、彼は津也に好意を抱くようになった。松溪の千枚描きに立会った日の夜、津也は師の誘いのままに、料亭へ出向き、抱かれる。徳二に片想いをしていた志満は、本家ちきりやのお内儀のすすめで西陣へ嫁いで行った。津也は絵に打込み、次々と賞をかち取っていったが、画塾内では松溪と津也の仲を言いたてるものもいた。月日が流れ、津也は妊娠した。それに気づいた勢以は、娘を激しく責め、相手が松溪と知り、津也に絵を禁じた。そして勢以は、津也の子を里子に出すことに決め、祇園で芸者をしていた喜代次を頼る。その喜代次の手引で、見知らぬ土地の農家で女児を出産した津也は、京には帰らず、東京にいる徳二を頼って行った。徳二との暮しの中でも、津也の中の絵への想いは捨てきれず、偶然、新聞で見かけた“西内太鳳ヨーロッパ帰朝展”の報に、津也は出かけて行く。そして、徳二に置手紙を残し、西内の滞在する長浜の昌徳寺に走った。西内は弟子にしてほしいと頼む津也のひたむきさに心動かされ、京に戻ると彼女に一軒の家を与えて絵の修業を続けさせた。明治二十九年、津也の「人生の春」が第五回日本美術院展の第一等に輝いた。光彩堂の招きでとある割烹に出向いた津也は、その席で松溪と再会する。かたくなな態度をとっていた津也も、老いた旧師が涙を流すのを見て、再び彼の腕の中に沈んで行った。津也はまた妊娠し、そのことを松溪に告げる。すると思いのほか“誰の子か”と冷たく突き放された。松溪は津也が太鳳の世話になっていることが面白くなく、ある展覧会の審査院として彼と顔を合わせた際、暴言を吐きちらした。津也と松溪の関係が続いていたことを知って激怒した太鳳は、津也に破門を言い渡す。津也は福井の高浜へ出かけ、おろし薬を飲んだ。漁師の電報で勢以は、すべてを許し、津也はちきりやで男の子を産んだが、父なし子を生んだことで世間の風当りはひどかった。三ヵ月後、津也は破門を許されて画壇に復帰した。大正七年、第一回文展の会場で、松翠の「母子」が注目を集めていた。そして、その前に立ちつくす松溪の姿があった。
島村勢以
島村津也
西内太鳳
島村志満
村上徳二
勢以の少女時代
津也の少女時代
志満の子供時代
志満の少女時代
斉藤松洲
橋田雅雪
滝川恭山
原在泉
今尾景年
菊地芳文
望月玉泉
島村くら
産婆
高級料亭の女将
薬屋の老人
高浜の漁師
勢以の叔父
利作
勢以の祖母
商家の女子衆
坂本の老婆
近所のおかみさん
近所のおかみさん
近所のおかみさん
近所のおかみさん
勢以の婿養子
髪結床の主人
芝居小屋の親方
ちきりやの若主人
仲居
俥屋
ちきりやの番頭
ちきりやの手代
くれ竹の女中
伏見玉家の女中
郵便夫
松溪塾々生
松溪塾々生
人力車夫
人力車夫
昌徳寺の小坊主
太鳳塾内弟子
小女
川上音二郎
喜代次の付人
主家ちきり家主人
島村甚八
光彩堂の主人
慶長堂の主人
山勘
喜代次
麻
ちきりやの内儀
高木松溪
監督
脚本
原作
ナレーション
撮影
音楽
美術
美術
編集
照明
録音
助監督
企画
企画
絵画制作協力
スチール
葉茶指導
方言指導