宇野重吉
石原参吉
保守政党の総裁選挙を端に発した汚職事件を描き、政界のドス黒い内幕を暴露する。脚本は「どてらい男」の田坂啓、監督は「華麗なる一族」の山本薩夫、撮影は「股旅」の小林節雄がそれぞれ担当。
昭和39年5月12日、第14回民政党大会で、現総裁の寺田政臣は、同党最大の派閥酒井和明を破り、総裁に就任した。この時、寺田は17億、酒井は20億を使った。数日後、星野官房長官の秘書・西尾が、金融王といわれる石原参吉の事務所を訪れ、二億円の借金を申し入れたが、石原は即座に断った。そして、石原は星野の周辺を部下と業界紙の政治新聞社長・古垣に調査させ始めた。政府資金95%、つまりほとんど国民の税金で賄っている電力会社財部総裁は、九州・福竜川ダム建設工事の入札を何かと世話になっている青山組に請負わせるべく画策していた。一方、竹田建設は星野に手を廻して、財部追い落しを企っていた。ある日、星野の秘書・松尾が、財部を訪れた。彼は寺田首相夫人の名刺を手渡した。それには「こんどの工事は、ぜひ竹田建設に」とあった。首相の意向でもあると言う。その夜、財部は古垣を相手にヤケ酒を飲んだ。古垣は財部の隙を見て、首相夫人の名刺をカメラにおさめた。昭和39年8月25日、財部は任期を一カ月前にして、総裁を辞任した。彼の手許には、竹田建設から7000万円の退職金が届けられていた。新総裁には寺田首相とは同郷の松尾が就任し、工事入札は、計画通り竹田建設が落札し、5億の金が政治献金という名目で星野の手に渡された。そんな時、石原は星野へ会見を申し込んだ。すでに星野の行動全てが石原メモの中に綿密に記されていた。この会見で、星野は石原に危険を感じた。数日後、西尾秘書官は名刺の一件で、首相夫人に問責され、その西尾は自宅の団地屋上から謎の墜落死を遂げた。警察は自殺と発表した。昭和39年10月6日、寺田首相が脳腫瘍で倒れ、後継首班に酒井和明が任命された。ある日石原はマッチ・ポンプと仇名される神谷代議士に呼び出された。神谷は、福竜川ダム工事の一件を、決算委員会で暴露するといきまいた。石原は神谷に賭けることにした。昭和40年2月23日、決算委員会が開かれた。参考人として出席した松尾電力会社総裁らは神谷の追及にノラリクラリと答え、財部前総裁は、古垣と会ったこと、名刺の一件を全て否定した。一部始終をテレビで見ていた石原は、古垣に首相夫人の名刺の写真と、石原がこの汚職のカギを握っていること、を古垣の新聞に載せるように言った。彼は星野らが自分を逮捕するであろうことを予測したのだ。派手に新聞に書きたてれば、よもや彼らも自分と心中はすまいと睨んだのだった。だが、その夜、古垣は、義弟・欣二郎に殺され、何者かに古垣の原稿と名刺写真のネガを持ち去られてしまった。翌朝の新聞には「三角関係のもつれ」とあった。石原参吉がついに逮捕された。「数億の脱税王」などと新聞記事は大見出しをつけていた。民政党本部幹事長室で、斎藤幹事長は、神谷代議士に2000万円渡し、三カ月ほど外遊するように、との党の意向を伝えた。翌日の決算委員会に、すでに神谷の姿は無かった……。昭和40年3月21日、死去した寺田前総理の民政党葬が行なわれ、酒井総裁が、厳粛な表情で故・寺田を讃える弔辞を読んでいた。
石原参吉
荻乃
加代子
かつ江
脇田
荒井
小坂老人
星野康雄
神谷直吉
西尾貞一郎
大川吉太郎
神原孝
早川義信
斉藤荘造
広野大悟
寺田政臣
寺田峯子
酒井和明
滝井検事総長
古垣常太郎
古垣欣二郎
遠藤滝子
財部賢三
若松圭吉
松尾芳之助
正岡
小島
小野
島田
星野の女
若松の女
君千代
黒尾重次郎
宗像
青山達之助
時枝
西尾悦子
監督
脚本
原作
製作
撮影
音楽
美術
編集
照明
録音
助監督
企画
スチル
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