伊吹吾郎
松本治一郎
部落解放運動の優れた指導者、松本治一郎の権力に屈せず、闘い抜いた半生を描く。脚本は「ラグビー野郎」の野波静雄と棚田吾郎の共同、監督は「脱走遊戯」の山下耕作、撮影は「テキヤの石松」の増田敏雄が担当。
松本治一郎は、少年時代から嘲られ、罵られながら、差別の洗礼を受けて育った。明治四十一年。成人した治一郎は徴兵検査で、被差別部落出身者を差別した係官と争った。そのため治一郎は不合格となり、単身自由の世界を求めて大陸へ渡った。だが大陸でも、被差別部落民というために身分を変え、姿を変える放浪が続き、失意のうちに帰国を余儀なくされた。実家に舞い戻った治一郎は、同じ村の鶴吉に誘われて、那珂川と御笠川の間の用水路の工事現場で働くようになった。久保寺家の当主伝右エ門は、「おまえらには水は分けてやらん」と彼らを妨害した。治一郎は、伝右エ門を決然と糾弾した。筋の通った治一郎のやりとりに、差別に甘んじていた村の人々は、次第に治一郎に惹れていった。ある日、ときわ屋で飲んでいた治一郎は、金のかたに妾になれと強要されていた矢頭タキを救った。借金の二百円を治一郎に払ってもらい、自由の身になったタキは、治一郎に感謝を捧げ、二人はほのかな想いが芽生えて、結婚を誓った。しかし、タキの両親は治一郎に感謝しながらも、差別意識から被差別部落民のこだわりを捨てきれなかった。同じ村の半三郎の家でも、娘のみよが相愛の佑介という学生との仲を被差別部落出身という理由で引き裂かれ、病身となって戻ってきた。大正五年六月、みよは静かに息を引きとった。村の火葬場は釜が故障していたが、他の村は火葬場の使用を断ったため、村の人々はやむなく、みよを河原で火葬に付すことにした。博多毎日新聞は、みよの火葬のことを悪しざまに報道した。怒った村の人々は、怒涛のごとく新聞社に殺到して抗議した。やがて治一郎は、花田慈円という僧侶にめぐり会った。慈円から、部落解放運動を推進している水平社の存在を知った彼は、こうして部落解放への長い道のりを歩み始めた。被差別部落出身の清、小林、山中等は、軍隊に召集された。軍隊では、部落出身者の名前の上に、赤星の印が押され、差別の厚い壁が彼らを押し潰していった。上官の乱暴を受けた小林は、差別に抗議して非業の死をとげた。治一郎は水平社をあげて、差別連隊への、入隊拒否運動を起こした。しかし、軍当局は、かつてのみよの恋人で、いまは部落解放運動に参加している佑介を強迫して、治一郎を福岡連隊爆破の容疑者として逮捕した。連日連夜、治一郎は尋問に耐えた。みよの霊の前で改心した佑介の証言で、治一郎の無罪が一時は証明されたかに思えた。だが、福岡地裁は強引に治一郎に有罪判決を下した。慈円の寺、大光寺の前では、差別判決に怒った部落大衆、青年同盟、処女会員がシュプレヒコールを繰り返した。日本農民組合や労農党福岡支部連合会の人々が、怒りを行動に表して続々と集合した。刑が確定して入獄する治一郎は、大衆の前で不正を糾弾し、被差別部落民が強い決意の下に団結して闘い抜く事を主張した。雪に埋もれた福岡刑務所の面会室で、互いに見つめ合う治一郎とタキ。治一郎は、静かに口ずさむ。「暴虐なる君はわが手足を縛するを得べし。しかれどもわが心縛するべからず」。かくして治一郎は、水平線にひるがえる荊冠旗の下で、大衆の先頭に立ち、三百万部落民の解放へ向って突き進む。
松本治一郎
松本次吉
松本ちよ
松本次七
松本鶴吉
大谷虎松
下田半三郎
下田清
成人後の清
花田慈円
宮崎友五郎
木下
野村
斎藤
和田
村松きぬ
梅津ヒデ
浅見
西谷
牛坂
葉村佑介
矢頭タキ
田上大佐
内海大尉
山路退役少将
小林
山中
勝俣
江上
塚越
星坂
緒方検事
清水
裁判長
人夫A
人夫B
部落の青年A
部落の青年B
刑事
監督
脚本
脚本
撮影
音楽
美術
美術
美術
編集
照明
録音
助監督
進行主任
企画
企画
企画
企画
スチール
協力
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