菅井一郎
稲垣博士
五所平之助の原案を「今宵妻となりぬ」の館岡謙之助が脚本を書き「今ひとたびの」の五所平之助が久々のメガフォンをとる。キャメラは「四つの恋の物語(1947)」第二話「別れも愉し」以来の木塚誠一。「地下街二十四時間」の浜田百合子「今ひとたびの」の龍崎一郎が主演する他「おスミの持参金」に引き続く若山セツコ、菅井一郎が共演し松竹の笠智衆が出演する。
燈台の灯がはるかに光り夜の波間に漁火がチラチラする海辺の稲垣博士の邸宅に博士の子弟川崎は招かれてきた。そこで川崎は博士とは余りにも年齢にひらきのある幸子夫人が今は亡き妻あき子に生き写しであることを発見した時、胸のうずきを感じるのだった。川崎にとって苦しくもまた楽しい焦燥の日が続いた。それは博士が非常な愛妻家をもって知られ円満な家庭としても評判であったからである。師の夫人に対して、ある感情を抱くなど--決してそれは許されるべきではなく、また考えてもならないことと川崎はわが心に言い聞かせるのだった。愛妻家として人に知られた川崎が過した遠い日の楽しい思い出、それがどうかすると幸子夫人に代ってしまうことがある。あの悲惨な戦争でさえ私達の幸福を傷つけることが出来なかった。と幸福感に浸っている師を見るにつけても川崎はどうかするとゆらぎ勝ちの感情を理性で押えつつ苦しい日を過していった。ある日のことモーターボートで川崎は幸子夫人と姪のカオちゃんの三人で遠乗りした時だった、突然の大雨に見舞われ、やむを得ず旅館に一泊しなければならなくなった。その夜、亡き妻と幸子夫人の夢にうなされてから眠れないままに月夜の静かな波打際へ出て興奮を鎮めている時、フト見た前方の岩礁に佇む女--。幸子夫人である。今まで押さえに押さえていた川崎の感情がセキを切りついに言ってはいけないことを口にしてしまった。幸子は愛する夫を裏切る恐ろしさにおののき、川崎から逃れたのである。何も知らない博士にも幸子の変化が判らないはずはなく、ある晩幸子は聞かれるままに全てを打明けた。すべては人の世の運命の試練である。博士は物静かに、川崎に幸子から遠く離れてくれと頼んだ。誰が悪いのでもない、あくまでも私からのお願いだ--という博士の声を後に、去って行く川崎を見送る博士と幸子の目に涙が光っていた。ただ二人だけがその秘密を知っている全ての悲劇は運命のいたずらなのだ。
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