何故主人公レズニクは眠れないのだろうか?不眠による体重の減少、精神の朦朧状態、そして、言語活動が遅滞している。レズニクは、朝体重を計測する。計測した体重をメモする。それから、彼は工場に出かける。そこで機械工として働く。労働の後、飛行場にあるカフェーで働くマリーのところで何気ない会話を交わす。それから、レズニクは馴染みの娼婦スティーヴィーのところに行く。彼女とのベットの上での会話が彼の心を落ち着かせる。気心が知れているのである。これがここ一年のレズニクの生活のリズムであった。
体重が減り、骨の上に皮が張り付いたようになったレズニクの体。こんなことで一体仕事ができるのだろうか。できたとしても後どのくらい持ち堪えることができるのだろうか。映画を見ている者は、常にこの問いかけをしながら、ストーリーを追う。画面は全体的に暗いが、濃密な色調である。そして、カメラは被写体をある一定の間隔を置いて注視している。被写体が動くと、これに連動するように、しかし、ゆっくりとカメラも走る。どことなく、D.リンチの世界を連想させる。そしてその不気味な雰囲気もである。
すると、アイヴァンという男が工場の同僚だといって出現する。いかにも性格の悪そうな人間だ。このアイヴァンとの関わりあいから、レズニクは次第に工場内でも孤立し、精神的にも追い詰められていく…
ストーリー自体は別にアクションに富んだものでもないのであるが、語り口の不気味さが見るものを惹きつけて放さない。これを良質なサスペンスというのであろう。作品の終盤、何故レズニクが眠れなくなったのかが、ジグソー・パズルのように、それまで一個一個の場面が分離されて置かれてあったものが、突然一個一個が関連づけられて、全体像に収斂されていくように、はたと腑に落ちるのである。
Chr.ベールがどんなに減量したかは、僕の興味にはない。また、主人公レズニクがその不眠になる原因の深刻性が、それまでストーリーが築きあげていたサスペンスと若干不釣合いで、何か肩透かしを喰らわせられたという感は否めないこともない。そうではあるが、その映画的世界の構築力を監督ブラッド・アンダーソンに買いたい。不眠の原因が分かってみれば、それまでストーリーとして追って見てきたものが、実は良心の葛藤が映像化されたものだったのだと判然とするのである。