“見えない海辺”が示すもの。バフマン・ゴバディ監督『四つの壁』が提示する、人間を取り巻くいくつもの“壁”
アッバス・キアロスタミの映画によって1990年代のミニシアターブームに大きな足跡を残したイラン映画。いわゆる“イラン・ニューウェーブ”の監督たちが生みだした豊かな映画表現は後継の世代に脈々と受け継がれ、先駆者たるキアロスタミやアミール・ナデリにつづく世代がモフセン・マフマルバフやジャファール・パナヒであるとするならば、バフマン・ゴバディはいま最も国際的評価の高いイラン出身監督であるアスガー・ファルハディと同じく、2000年以降に頭角を表した、さらに新世代の監督の一人と言えよう。
クルディスタンの町であるバネーに生まれ、キアロスタミの『風が吹くまま』(99)で助監督を務めたゴバディ。長編監督デビュー作の『酔っぱらった馬の時間』(00)と『わが故郷の歌』(02)をクルディスタン州で撮りあげ、『亀も空を飛ぶ』(04)ではイラクのクルド人自治区を舞台に選ぶ。テヘランで『ペルシャ猫を誰も知らない』(09)を撮った後に亡命し、トルコで『サイの季節』(12)を撮れば、前作のドキュメンタリー映画をイラクの難民キャンプで撮影。そして今回、第34回東京国際映画祭でワールドプレミア上映が行われた最新作『四つの壁』では再びトルコに戻り、イスタンブールの海辺の町が舞台となる。本作でアミル・アガエイ、ファティヒ・アル、バルシュ・ユルドゥズ、オヌル・ブルドゥがそれぞれ最優秀男優賞を受賞した。
『四つの壁』の物語は、空港に飛来する鳥を撃つ仕事をしながら生計を立てるクルド人音楽家のボランが、内陸の町で離れて暮らす家族と暮らすアパートをイスタンブールに購入するところから始まる。海を見たことがない妻のために、部屋から海が見えるアパートを選びローンを組むのだが、いざ妻と息子を迎えに行った道中で事故に遭い、妻と息子は死亡。ボラン自身も数か月の昏睡状態に陥ってしまう。意識を取り戻し、失意のなかで帰宅したボランを待ち受けていたのは、その数か月の間に建てられた新築アパートによって海への眺望が遮られた窓外の風景と、親戚を訪ねてきたと言ってボランの家に転がり込む謎めいた女性だった。
アパートの部屋から海を見る序盤のシーンで、三つ並んだ建物の間から海が覗く。それが数か月後のシーンで新しい建物が加えられ、四つの建物の外壁が主人公と海の間を隔てるのである。タイトルにある“四つの壁”とは、まずこれらの建物の存在を示すものであろうか。しかしこうした視覚的に顕著に示されたもの以外にも、主人公にはいくつもの“壁”が立ちはだかるのである。それは海を遮るアパートの住人や施工会社、同じアパートに住む隣人たち、家族を奪った事故を引き起こした少年とその母親、そしてミュージシャン仲間たちといった、主人公と彼を取り巻く人々との“壁”に他ならない。
上映後に行われたオンラインQ&A「TIFF トークサロン2021」でのゴバディの説明によれば、タイトルが示す“壁”とは「シンボリックなもの」だそうだ。容易に視覚化できず、また正解のないものであると考えるならば、物語全体を通しながら解釈を重ねていくに留めるのが適切であろう。この物語の構成で興味深いところは、人間関係という“壁“を段階的に提示しながら主人公であるボランの心情を鋭くえぐり続け、ある種ドラマ的な抑揚を見出そうとせずに主人公の心理的な落ち込みを延々と追い続けることにある。
それは主人公が暮らすアパートの階段に、適宜重ね合わされていく。事故からの退院後、ボランが帰ってくるアパートの階段は主に上層階から見下ろすショットで捉えられ、その高さ、ないしは深さが判然としない。代わりに警官など、そこを上ってくる人々は決まって辟易としながらボランの部屋を訪ねてくるのであり、いかにボランが事故を通して外界との間に高い壁を作り出しているのかが象徴されていく。
また中盤、景観訴訟を提起しようと署名を集めるために同じアパートの隣人を訪ねていくボランは、自身が“海が見える”ことへの執着を持っているのと対照的に、隣人たち全員が海に興味を持たないことに打ちのめされ、はたして本当に海が見えていたのかと疑念を抱く。他者との壁にぶつかるたびに、ボラン自身の内面にも過去の自分に対する新たな壁が構築されていくというわけだ。そしてそれは、事故を起こした少年を赦すことができないという思念が、自分自身を赦すことができないことへと転じていくこととなり、客観的に見て救いのないクライマックスこそがボランにとっての唯一の救いとなるのである。
ベランダに飛来する一羽の鳥。中盤のシーンでの何気ない会話を思い起こせば、それは主人公の行く末を暗示するものであったとよくわかる。また壁に掲げられた海の写真からその中へと入り込んでいくシーンに、海岸線を歩く主人公の背景で崩れゆく建物。自身が置かれる状況の変化、そして町自体が変わっていく様への哀愁と恐怖が、おそらくゴバディ自身の経験と重ね合わされるようにしてこの物語に投影されているのだろう。「自己」と「自己」、「他者」や「環境」や「宗教」。この普遍的で悲劇的なドラマが提示する“壁”は、決して四つに収まりきるものではない。
文/久保田 和馬