宍戸錠、ニューヨークで78歳子作り宣言! 公私共に目標はクリント・イーストウッド監督!?

インタビュー

宍戸錠、ニューヨークで78歳子作り宣言! 公私共に目標はクリント・イーストウッド監督!?

9月30日から開催されている第49回ニューヨーク映画祭のイベント“日活100周年祭”で上映される37本の日活映画のうち、鈴木清順監督作『肉体の門』(64)、『縄張(しま)はもらった』(68)で舞台挨拶を行うためにニューヨークを訪れている宍戸錠が、13時間の時差にも負けず、黒いスーツに白黒のネクタイでビシッ!と決めてインタビューに応じてくれた。

1954年にニューフェイス1期生(8000人の中から20人が選ばれた)として日活に入った宍戸だが、俳優を志したのは母親のお腹にいる時からだったらしい。「当時の映画館には水洗トイレなんてなかったから、映画館の中も臭かったんだけど、おふくろは俺がお腹にいる時もそこで映画を見ていたんだ。お腹の中で臭いにおいもわかっていたよ(笑)。小さい時からチャンバラごっこも好きで、腰にベルトを巻いて刀を挟めるだけ挟んだら、きつすぎて脱腸になった」経験があるそうで、生まれながらにして役者、それもアクションスターになる運命だったようだ。

小さい時から親分肌だった宍戸は、日活に入ってから程なく“エースのジョー”として頬にシリコンを入れ、悪役としてその名を馳せるようになるが、役柄に恥じることなく、私生活でも豪快かつ女性関係も華やかだったようで、4期生で21歳の若さでなくなった赤木圭一郎に夜遊びを指南したという。「夜中になると俺のところに誘いに来て、『遊んでくれ』ってうるさかったんだよ。夜遊び、酒の飲み方から喧嘩の仕方、あいつには全部教えてやったよ」と、豪遊していた当時を懐かしそうに振り返った。

その遊びが男の色気を醸し出し、役者としては大いに役立ったようだが、ヤクザや悪役を演じるにあたってのリサーチや、拳銃、刀さばきなどの役作りについては、「役作りのためにヤクザと関わったら大変だよ。最近、芸能界を追放されちゃった人がいるくらいだからさ。俺は何でもぶっつけ本番で、準備なんかしない」のだという。なかでも『肉体の門』(64)などでタッグを組んだ鈴木清順監督とは、出演者と共にその場でセリフなどを加えたりしながら映画作りをしていく醍醐味があったそうで、『米が炊けるにおいで起つ』なんていうのは、もちろん俺たちが考えて付け加えてもらったんだ」と当時のエピソードを楽しそうに語ってくれた。

派手な私生活の一方、売れっ子俳優として仕事にまい進したという宍戸は、西部劇の大ファンなのだそう。1960年代の日本映画にはアメリカ西部劇の影響を多く受けた作品も多かったが、『早射ち野郎』(61)でウエスタンブーツにカウボーイハットでエースのジョーを演じた宍戸は、「1945年に日本が戦争に敗れて、いろんなアメリカ映画が日本に入ってきたんだけど、ジョン・ウェイン主演の『駅馬車』(39)とか見て、アメリカのスケールの大きさに度肝を抜かれたよ。とても敵わないよね。『早射ち野郎』を撮った当時なんて、日本には早射ちのピストルもウェスタンブーツもなかったのに、いかにもそれらしいのを作って、まるでアメリカで撮影したように見せかけて、“風船2つ0.65秒、早撃ち世界第3位”なんて謳い文句で宣伝してたんだから、俺たちも大したもんだよ。俺もその気になって、『ヴェラクルス』(54)のバートランド・カスターを参考に演じたんだ」。

「西部劇はたくさん見てるけど、特にクリント・イーストウッドの作品が好きだね。監督作も含めてほとんど見ているよ。『硫黄島からの手紙』(06)はイマイチだったけど、後はみんな良いよ。別にアカデミー賞なんてどうだって良いけど、81歳で現役の俳優として長いセリフが言えて、監督業もやっててほんとすごいよ」と感心することしきり。イーストウッド監督のキャリアもさることながら、前妻、恋人、現在の妻、そして隠し子と計7人の子供がいると言われている精力的な部分も見習いたい、といったところだろうか。

今年、ある雑誌のインタビューで、「今まで寝た女性は1331人、78歳で子供を作りたい」と語っていたが、「残念ながら、今もまだ相手は見つかってないよ。12月で78歳になるから、後1年ちょっとの間に、是非とも子供を作りたいと思ってる」と、ビール片手にご機嫌な様子で、堂々の子作り宣言をしてくれた。

今年は日活の同期でもある長門裕之や原田芳雄など、多くの名優たちがこの世を去ったが、イーストウッド監督に負けず、映画に私生活にまだまだ頑張ってほしいものだ。【取材・文 NY在住/JUNKO】

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