ジャン=ルイ・トランティニャン
Senateur
一九七〇年、チリ共産党・社会党による人民連合と軍部反動派の血みどろの戦いを描く。製作はジャック・シャリエ、監督はチリからフランスに亡命したエルヴィオ・ソトー、撮影はジョルジュ・バルスキー、音楽はアストル・ピアソラが各々担当。出演はジャン・ルイ・トランティニャン、ローラン・テルズィエフ、アニー・ジラルド、ビビ・アンデショーン、リカルド・クッチョーラ、ベルナール・フレッソン、ニコール・カルファン、モーリス・ガレル、ジョン・アビー、セルジュ・マルカン、アンリ・ポワリエなど。
一九七〇年九月四日の夜、チリの首都サンチャゴ。アウグスト・オリバレス(リカルド・クッチョーラ)はテレビで大統領選の速報を報道していた。「人民連合」のサルバドル・アジェンデ(M・ペトロフ)が、国民党、キリスト教民主党を押え、当選確実だったが、内務省はなぜか最終結果の発表を遅らせていた。キリスト教民主党出身のエドゥアルド・フレイ大統領は、社会党、共産党などの革新六党の「人民連合」政権の誕生を阻止するため、チリ駐在のアメリカ大使、アメリカ電信電話会社(ITT)と共に軍事クーデターを提案していたのだ。一方、「人民連合」本部では、上院議員(ジャン・ルイ・トランティニャン)がデモにくり出そうとする学生や労働者を押さえていた。首都の第二機甲連隊が出動してクーデターの危機が切迫したが、陸軍総司令官のレオ・シュナイダー将軍は、憲法を守ると声明してクーデターは防がれた。一九七一年五月、繊維工場ホール。四月五日の地方選挙で「人民連合」は五〇・八パーセントという得票を得て大勝利したばかり。労働組合指導者ホルヘ・ゴンザレス(モーリス・ガレル)は「人民連合」政権をたたえ、ブスコビッチ経済相(ベルナール・フレッソン)を壇上に招いた。ブスコビッチは「人民連合」政権が子供たちに一日半リットルのミルクを保証したこと、アメリカが四二年間に四二億ドルも収奪した銅山の固有化について話した。一九七四年始め。オリバレスの家を友人のカルベ記者(ローラン・テルズィエフ)が妻モニク(ビビ・アンデショーン)を共ない訪れた。アメリカ、右翼、資本家一体となっての「人民連合」への圧力を語り合っているとき、窓ガラスを破って石が投げ込まれた。石をくるんだ紙には「死=ジャカルタ」とあった。同年三月二三日。ITTとCIAに支援された右翼=ブルジョワの代表者がトラック業者、商店主、医師会の代表に反政府ストをそそのかして実行させた。その資本家ストのためにチリ全土が混乱状態になり、アジェンデは内戦をさけるため、国民投票の実施を決意した。同年九月六日、新たに陸軍総司令官に就任したアウグスト・ピノチェット将軍(アンリ・ポワリエ)は、国民投票予定日の九月十日にクーデターを起こすことを決定した。同十一日午前七時半。アジェンデ大統領はモネダ宮(大統領府)で、クーデターに抵抗することを決意した。オリバンテスは妻マリア(アニー・ジラルド)に別れの電話をかけた。やがてサンチャゴの街路に戦車が走り始めた。軍隊ではクーデター反対の兵士たちが逮捕された。連絡にとびちる学生、バリケードを作る労働者、ラジオは「サンチャゴに雨が降っています」と危機を暗号で告げた。程なく、軍隊がモネダ宮へ攻撃を開始、アジェンデ大統領みずから自動小銃をとると共に、国民に向けて悲壮な最後のラジオ放送を行なった。攻撃部隊は宮殿内に突入し、アジェンデもオリバレスも倒れた。繊維工場でも武装した労働者たちは勇敢に抵抗したが、圧倒的な武力に押しつぶされ、ゴンザレスらは銃殺された。大学でも学生たちの大量逮捕が始まった。「人民連合」の歌を唄ってみんなをはげまそうとしたフォーク歌手(D・ゲラシモフ)は兵士たちに虐殺された。街頭では進歩的な本が焼かれ、アカと密告された人の殺害が続いた。ピノチェット将軍らは軍事評議会の記者会見をし、いったん固有化した銅山をアメリカ資本に返還すると言明した。「人民連合」派のノーベル賞詩人パブロ・ネルーダが死んだ。九月二六日のそのネルーダの葬儀。それは、クーデター後初めてのファシズムに反対するデモとなった。
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