監督、編集
東プロダクションが、東陽一の「やさしいにっぽん人」と同時に製作を開始した2時間47分に及ぶ長編記録映画。監督は「パルチザン前史」の土本典昭。撮影も同作の大津幸四郎が担当。なお〔略筋〕には土本典昭氏の「監督の言葉」を引用した。
ストーリー
これから映画をとるのだと思いつつ“水俣”を見まわした頃“水俣”への入口は無数にありそうでいてこれだという緒口をみつけだせなかった。“水銀の海”“奇病地帯”“怨念”“十八年の苦難”所詮、健康で他所ものの人間である私たちが、どの戸口の扉をひらこうと、途端におでこをぶつける妄想におびえるといったていたらくであった。私たちの選びとった方法は全家庭の訪問である。そしてその最初の入り口を、すでに亡くなられた方々から始めた。十八年の歳月の作用で、日常、明るささえももっている遺族の方々であることに気持のゆとりをみいだしながらインタビューしていった。だが死にかかわる亡き患者さんへの追憶は昨夜のことのように生々しく、決して風化されていない。チッソへ、市・県・国へとさかのぼる話のディテールは鮮やかであった。“水俣病”そのものを忘れさせ闇から闇に葬ろうとする一連の太い動きに、単独で立ち向かってきた個人の年譜があった。それが、私たちのカメラをもつもの特有の臆した、後めたい自ら内部の空洞を充しはじめた。次に大人、老人の患者さんたちに足を運ぶことが出来、十世帯、二十世帯と重ねるうちにはじめて患児を、とくに最終的には存在そのものである最重苦の胎児性水俣病の子供の家の入口をくぐるに至れた。この日々の間々に、工場を、裁判を、患者総会を撮り、最後に、未認定の患児に至ったのだ。水俣市を爆心地とすれば、それより更に辺境の津奈木、芦北の集落に、ポツンポツンと点在する家に、病名不詳のまま、まさに見てきた水俣病そのものの病状の子供たちを見た時、私は「世間が人を殺す」のを見た気がした。私のふれた「地獄」であった。のろのろとした怯じた足どりで至ったのはそうした現実の一片であったのだ。言葉でいえば、そのまっくらやみの現実でありながら、この映画が、もし患者さんのみずみずしい世界をうつし得ているとしたら、それは何か?全篇至るところで笑み、声を放って心のたけを語り、明るくざわめく人々の貌は何か?患者さんの世界は「光って」いる。十八年、あらゆる辛酸をへてなお生き、生きることで、その全存在で闘っていることはかくも人間に対する普遍的な、つきぬけた明るさを育てるものなのか、私は驚嘆する。発光しはじめた人間たち、それとかかわった人間だからこそ「告発」が生まれ「苦海」が生まれ、ここに映画も感光したのだと思える。