松橋登
K
二人の若い男と一人の娘をめぐる愛の葛藤にスポットをあて、人間の生命の根元としての裏切りと性を凝視する。夏目漱石の「こころ」の映画化。監督・脚本は「讃歌」の新藤兼人、撮影も同作の黒田清巳がそれぞれ担当。
光に溶けた爽かな緑の流れ、蓼科の樹立するミズナラの林に背を向けて一人の男が立っている。十年前の初夏、彼、Kは二十歳の学生だった。彼は古き東京の残りをとどめる本郷縁きり坂の古い家を訪れた。彼は和服を上手に着こなしたM夫人を前に、部屋を貸してくれるように頼んだ。主人を戦争で失い、娘と二人で暮しているM夫人は、小遣いかせぎに部屋を貸そうとしていた。真面目な方をという条件もさることながら、父親の遺産を受けついでいる、というKに夫人の心が動いた。この家に下宿してからKの生活は快適だった。美しい娘・I子の存在。Kには夫人がI子を自分に接近させようと作為しているように思われた。Kは中学時代からの親友のSが生活に困っているのに同情し、自分の部屋の隣りに住まわせることにした。Sが引越してくると間もなく夏休みになった。KはSの心をほぐすために一家で蓼科の山小屋に遊びに行くことを考えた。丸一日山小屋にいて、夫人は先に帰っていった。三人が白樺の林を散歩しているうちにKがとり残されてしまった。追いつこうと足を早めたKは、茂みの中からI子とSが出て来るのを見た。思いなしかSの表情は硬かった。翌朝、蓼科山に登れるか、というI子の問に、気負い立ったSは登り始めた。数時間たって、夕食の用意をしているKとI子の前に、よろめく足を引きずりながらSが帰って来た。「蓼科で何があったんですか」人が変ったように元気になったSのことを夫人はKに聞いた。ある日、Kを誘い出したSは、I子を愛してしまったことを告白した。まだI子には告白していない、というSの言葉にKは内心ほっとした。翌日、Kは夫人と二人きりになった時「お嬢さんを私にください」と切りだした。その瞬間、わが意を得たかのように夫人の表情が変った。このことをSに知らせなければならない、と思いながらも、Kには決心がつかなかった。数日が過ぎた。夫人がSにKとI子のことを話したようだった。「彼は何といいましたか」Kは息をつめて聞いた。「喜こんで下さったようですよ」夫人は明かるく言った。真夜中、うなされ、寝汗をかいたKは、隣室の異常さに気づき、Sに声をかけた。Sは、右手に剃刀を握ったまま血の中にうずくまって、息絶えていた。机の上にはKにあてた遺書が残されていた。この友人によって暗示された運命の恐ろしさに、Kはただふるえていた……。
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