宮口精二
東郷外務大臣
大宅壮一名義(実際の著者は当時編集者だった半藤一利)で当時の政治家宮内省関係、元軍人や民間人から収録した実話を編集した同名原作(文芸春秋社刊)を、「上意討ち -拝領妻始末-」の橋本忍が脚色し、「殺人狂時代」の岡本喜八が監督した終戦秘話。撮影は「喜劇 駅前競馬」の村井博。
戦局が次第に不利になってきた日本に無条件降伏を求める米、英、中のポツダム宣言が、海外放送で傍受されたのは昭和二十年七月二十六日午前六時である。直ちに翌二十七日、鈴木総理大臣官邸で緊急閣議が開かれた。その後、八月六日広島に原爆が投下され、八日にはソ連が参戦、日本の敗北は決定的な様相を呈していたのであった。第一回御前会議において天皇陛下が戦争終結を望まれ八月十日、政府は天皇の大権に変更がないことを条件にポツダム宣言を受諾する旨、中立国のスイス、スウェーデンの日本公使に通知した。十二日、連合国側からの回答があったが、天皇の地位に関しての条項にSubject toとあるのが隷属か制限の意味かで、政府首脳の間に大論争が行なわれ、阿南陸相はこの文章ではポツダム宣言は受諾出来ないと反対した。しかし、八月十四日の特別御前会議で、天皇は終戦を決意され、ここに正式にポツダム宣言受諾が決ったのであった。この間、終戦反対派の陸軍青年将校はクーデター計画を練っていたが、阿南陸相は御聖断が下った上は、それに従うべきであると悟した。一方、終戦処理のために十四日午後一時、閣議が開かれ、陛下の終戦詔書を宮内省で録音し八月十五日正午、全国にラジオ放送することが決った。午後十一時五十分、天皇陛下の録音は宮内省二階の御政務室で行われた。同じ頃、クーデター計画を押し進めている畑中少佐は近衛師団長森中将を説得していた。一方厚木三〇二航空隊の司令小薗海軍大佐は徹底抗戦を部下に命令し、また東京警備軍横浜警備隊長佐々木大尉も一個大隊を動かして首相や重臣を襲って降伏を阻止しようと計画していた。降伏に反対するグループは、バラバラに動いていた。そんな騒ぎの中で八月十五日午前零時、房総沖の敵機動部隊に攻撃を加えた中野少将は、少しも終戦を知らなかった。その頃、畑中少佐は蹶起に反対した森師団長を殺害、玉音放送を中止すべく、その録音盤を奪おうと捜索を開始し、宮城の占領と東京放送の占拠を企てたのである。しかし東部軍司令官田中大将は、このクーデターの鎮圧にあたり、畑中の意図を挫いたのであった。玉音放送の録音盤は徳川侍従の手によって皇后官事務官の軽金庫に納められていた。午前四時半、佐々木大尉の率いる一隊は首相官邸、平沼枢密院議長邸を襲って放火し、五時半には阿南陸相が遺書を残して壮烈な自刃を遂げるなど、終戦を迎えた日本は、歴史の転換に伴う数々の出来事の渦中にあったのである。そして、日本の敗戦を告げる玉音放送の予告が電波に乗ったのは、八月十五日午前七時二十一分のことであった。
東郷外務大臣
松本外務次官
鈴木総理
米内海相
阿南陸相
岡田厚生大臣
下村情報局総裁
井田中佐
竹下中佐
椎崎中佐
畑中少佐
梅津参謀総長
豊田軍令部総長
石黒農相
平沼枢密院議長
荒尾大佐
大西軍令部次長
小林海軍軍医
迫水書記官長
木原通庸
川本秘書官
老政治部記者
不破参謀
森近衛師団長
野中俊雄少将
藤田侍従長
戸田侍従
三井侍従
入江侍従
徳川侍従
黒田大尉
水谷参謀長
伍長
高嶋少将
板垣参謀
大隊長
巡査
渡辺大佐
大橋会長
矢部国内局長
荒川技術局長
小薗大佐
菅原中佐
木戸内大臣
石渡宮内大臣
蓮沼侍従武官長
中村少佐
清家少佐
佐藤内閣官房総務課長
松阪法相
広瀬蔵相
杉山元師
畑元師
佐々木大尉
加藤総務局長
筧庶務課長
若松陸軍次官
古賀少佐
石原少佐
長友技師
田中大将
塚本少佐
芳賀大佐
小林少佐
佐野恵作
佐野小門太
白石中佐
館野守男
原百合子
稲留東部軍参謀
岡部侍従
神野参謀
憲兵中尉
高橋武治
和田信賢
陸軍軍務局長
厚木基地飛行整備科長
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