佐藤允
加藤建夫
須崎勝弥が脚本を執筆し、「あゝ海軍」の村山三男が監督した戦記もの。「いそぎんちゃく」の渡辺公夫が、撮影を担当した。
昭和四年、加藤建夫中尉は、所沢飛行学校の教官となった。加藤は、二人の優秀な教え子を持った。元聯隊旗手から航空に転じた木原少尉と、中華民国陸軍中尉の趙英俊だった。やがて、日本と中国は戦火を交えることになった。昭和十二年北支戦線に出動した加藤戦闘機隊長は、撃墜王の名を欲しいままにした。ある日、木原が、竜のマークをつけた敵戦闘機に不意をつかれ、戦死した。それはかつての留学生趙英俊の機だった。加藤は、一騎討ちを挑み、遂に撃墜するがその一瞬の焔の色が忘れられなくなってしまった。やがて、内地に帰還した時加藤は家に帰らず、戦死した部下の留守宅を廻り、遺族に詫びその姿に遺族は感動した。加藤は、妻・加寿子に真赤な焔の夢を語った。加寿子は、その焔がいつかは夫をも焼く焔であることを悟り、覚悟を決めた。間もなく、日米は開戦し、最新鋭機“隼”が加藤少佐を長とする第六四飛行隊に配属され、マレー半島に進撃した。緒戦の活躍で加藤隼戦闘隊の勇名は轟いた。そして、パレンバン空挺作戦を山下軍司令官に具申した加藤隊長は、みごと重務を果したが、教え子の安藤中隊長以下数名のかけがえのない犠牲を払わねばならなかった。シンガポールが陥ち、ビルマ進攻作戦が開始された。その最前線基地アキャブで、加藤隊長は、単機、襲来した敵爆撃機を追って、撃墜したが、自からもまた火を発して、ベンガル湾上で壮烈な戦死を遂げた。昭和十七年五月二十二日のことだった。
加藤建夫
夫人加寿子
木原少尉
安藤少尉
大江中尉
三宅少佐
趙英俊
立花圭子
木原慎吾
木原寿美
徳原好道
志村少佐
山下奉文
本庄大尉
正木中尉
人見伍長
水野軍曹
沢井軍曹
島田伍長
手塚軍曹
松本軍曹
森伍長
小川伍長
歩兵聯隊長
A大佐
B大佐
C中佐
D中佐
参謀A
参謀B
参謀C
圭子の母
坊や
芸者A
芸者B
芸者C
憲兵A
憲兵B
衛兵司令
歩兵大隊長
歩兵大隊副官
監督
脚本
製作
撮影
音楽
美術
編集
照明
録音
特撮監督
特殊撮影
企画
企画
スチル
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