語り手
昭和二十八・九年の二回に亘って日本登山隊によって試みられた、ヒマラヤ山脈の処女峰マナスル(八、一二五米)登山の総天然色記録映画(イーストマン・カラー撮影)である。ヒマラヤ登山後援会の企画、日本山岳会の監修で、依田孝喜が一人で撮影に当った。語り手は宇野重吉。
ストーリー
日本人によるマナスル登山は、昭和二十七年八月、今西錦司を隊長とする踏査隊によって始められた。二十八年三月下旬、三田幸夫隊長等十四名の第一回登山隊はネパールの首都カトマンズを出発し、海抜三、八五〇米のサマ村にべースキャンプを設けた。隊員と十五名のシェルパは五月三十一日七、五〇〇米の地点に第九キャンプを設け、六月一日、加藤、山田、石坂の三人が登頂を試み、正午頂上迄三七五米の箇所に達したが、下山を余議なくされた。翌二十九年三月下旬、四百五十人のポーターと二十三名のシェルパを率いる堀田隊長ほか十三名の一行は、ブリ・ガンダキの大渓谷を越え、マナスルを目前とするニヤツクに着いたが、マナスルの麓のラマ僧院が一月程前に雪崩の下敷となったのは、日本人が聖山カンブンゲン(マナスル)を汚した神罰と信ずる住民達の為にサマ村へ近づくことが出来なかった。登山隊はガネシュ・ヒマール(七、四〇六米)に目標を変え、二十八年ニュージーランド登山隊が六、〇五〇米迄登ったコースを取り、五月八日登り始め、十日に六、〇五〇米に第三キャンプを置き、大氷壁の登攀にかかったが、六、三〇〇米を最高到達点として断念しなければならなかった。
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