嵐寛寿郎
明治天皇
先に同じ新東宝が製作した「明治天皇と日露大戦争」の姉妹篇で、日清戦争を中心に天皇と皇后を描く。社長大蔵貢が自ら原作を書き「世界の母」の館岡謙之助が脚色、「鏡山誉の女仇討」の並木鏡太郎が監督した。撮影は、「戦雲アジアの女王」の山中晋。主演は、明治天皇に「稲妻奉行」の嵐寛寿郎、皇后に「戦雲アジアの女王」の高倉みゆき、そのほか高田稔、天城竜太郎、若山富三郎、高島忠夫、藤田進、和田桂之助などオールスター・キャスト。色彩はイーストマンカラー。
明治二十七年八月一日、日清両国間に宣戦が布告された。祖母と二人暮しの山田一太郎のもとにも召集令状がきた。老いさき短い祖母は苛酷な運命を呪った。そして旬日、一太郎は、“一太郎やーい”という祖母の悲痛な叫び声を後に宇品港を発った。その頃、宮中では天皇を中心に伊藤首相ら重臣によって大本営の広島進駐が決定された。一方、戦線では韓国の野津師団が激闘の末に平壌を陥し、海軍も海洋島の東北東で四時間半にわたる大海戦を演じて勝利をおさめた。内地では天皇、皇后が率先して国民の志気を高めようと、傷病兵の慰問などに心を尽されていた。黄海の制海権を握った日本軍は山県大将の率いる第一軍と大山大将の率いる第二軍をもって旅順攻略を目指し進撃を開始した。旅順はドイツ人を招いて作った最新式の要塞、攻略作戦も一頓座を来したが、木口小平ラッパ手らの決死的攻撃によって、前面の堅塁、黄金山砲台の陥落に成功した。この進撃に清国は驚愕した。数日後には米国を通して講和打診が行われてきた。これをめぐって大本営では白熱的な論議が闘わされた。この間にも威海衛攻略の火蓋は切られた。第二軍は威海衛軍港の背面に迫り、海軍が軍港の奥深くひそむ北洋艦隊に決戦を挑んだ。闇黒の海面を修羅場に化した水雷夜戦。こうして清国海軍は“定遠”以下の多数の艦船を失い、威海衛は陥ちた。この形勢に狼狽した清国は、ついに講和使節を送ってきた。二十八年三月十九日、講和全権として李鴻章一行が下関に上陸、翌二十日から講和談判が始った。李鴻章が一暴漢に狙撃されるという一幕もあって、講和談判は日本側に有利な結果をもって終った。しかし勝利の歓喜が、まだ全国に達せぬうちに突如、日本の息の根を止めるような大事件が起った。ロシア、フランス、ドイツが、清国の同意を得て割譲される筈の遼東半島の領有権を放棄せよというのである。しかも世界情勢は日本に不利、平和を希う天皇は遂に三国勧告受諾の聖断を下した。
明治天皇
昭憲皇后
伊藤首相
大山陸相(後に第二軍司令官)
西郷海相
松方蔵相
山県大将(第一軍司令官・後に陸相)
野津中将(第五師団長)
大島少将(混成旅団長)
立見少将(第十旅団長)
山地中将(第一師団長)
主木少将(第一旅団長)
川上中将(参謀次長)
児玉少将(陸軍次官)
山本(権)少将(軍務局長)
大寺参謀
伊東中将(連合艦隊司令長官)
出羽少将(連合艦隊参謀長)
坪井少将(第一遊撃隊司令官)
向山少佐(「松島」副艦長)
島村少佐(連合艦隊参謀)
藤田少佐(水雷艇隊隊長)
今井大尉(水雷艇隊隊長)
伊勢地大佐
原田重吉一等兵
三村幾之助中尉
山田一太郎二等兵
一太郎の祖母
佐藤兼吉二等兵
佐藤の母親
木口小平喇叭卒
田代小隊長
三浦虎次郎三等兵曹
連絡将校
大鳥圭介(駐清兼駐韓公使)
林外務次官
井上書記官
通訳官
米田侍従
日野西侍従
岡沢少将(侍従武官長)
斎藤(実)少佐(侍従武官)
香川皇后太夫
石黒忠悳(野戦衛生長官軍医総監)
「吉野」の参謀
「松島」の参謀
「松島」の観測員
李鴻章(清国軍機大臣講和全権大使)
李鴻章の随員
袁世凱(清国駐韓公使)
丁汝昌(北洋艦隊司令長官)
程壁光(清国軍使)
程壁光の随員
閣泳駿(韓国総理)
韓国随員
清国随員
暗殺団員小山
村長
分会長
百姓の老爺
百姓の息子
病院長
傷病兵
郵便夫
看護婦長
看護婦
出征兵士
出征兵士の父