宇野重吉
久保山愛吉
日本人漁夫がビキニ環礁で遭遇した水爆実験の被害事件を描いたもので、「米」の八木保太郎と新藤兼人の脚本を、「悲しみは女だけに」の新藤兼人が監督した。撮影は植松永吉・武井大が担当。
一九五四年三月、焼津港を出た漁船第五福竜丸は、魚を求めてビキニ環礁のあたりにいた。乗組む二十三人の漁夫たちは、故郷に妻や恋人や親たちを持つ、平凡な人々だった。船長笠井太吉はわずか二十二歳の若さで、船の実権は漁撈長の見島民夫が握っていた。苦労人の無線長久保山愛吉は乗組員たちの信任を得ていた。三月一日の午前三時四十二分、乗組員たちは夜明け前の暗やみの中に白黄色の大きな火の柱が天に向ってたちのぼるのを目撃した。六、七分の後、大爆音があたりをゆるがせて響いた。ビキニ環礁で米国の専門家たちによって行われた水爆実験であった。立入禁止区域外にいて、何も知らなかった一同の頭上に、やがて真白な死の灰が降りそそいだ。三日後、船員たちは灰のついた部分の皮膚が黒色に変り、身体に変調が生じたのに気づいた。帰港後、焼津協立病院外科主任大宮医師の診断により、一同が原爆症とわかり、第五福竜丸の船体から放射能が検出されるに及んで、事件は大きく表面化した。物理学者・化学者・生物学者・医師等が焼津に集まり、報道陣は活躍をはじめ、日本中の目は焼津に注がれた。報道は世界中に打電され、アメリカからも専門家が調査にやってきた。しかし、彼等は何故か積極的な協力を日本側に与えようとはしなかった。二十三人の漁夫たちは東京の病院に移され、日本側医療科学陣の総力をあつめて治療が進められた。慰めの言葉や米国に対する抗議文が、病人たちの枕辺にはうず高くつまれた。外国からも多くの手紙が殺到した。しかし、漁夫たちの中でも年長者であり、身体の衰弱の激しい久保山愛吉は、肉身の者に見守られながら、「身体の下に高圧線が通っている……」と絶叫しつつ死んだ。こうして、原子力研究とは何の関係もない漁夫たちに突然襲いかかった悲劇は、今なお続いているのだ。
久保山愛吉
久保山しず
知事
木下博士
県衛生部長
清川博士
東一副院長
見島民夫(漁撈長)
熊谷博士
大宮医師
都目博士
アナウンサー
美波博士
焼津の警官
社会部次長
写真屋のおっさん
矢代きよの父
泉谷博士
助役
原爆障害調査委員会所長
アイゼンバアグ
米人医師A
米人医師B
米大使代理
協立病院長
理髪屋の主人
西山与市(船元)
病院の小使
組合長
内科医長(東一)
山崎浩司(機関長)
近藤次郎(甲板員)
矢代きよ
みどり(かもめの女)
小森たき
見島の妻
谷岡婦長
山崎の母
河田の・母つや
久保山きぬ
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