市川右太衛門
松五郎
「三十三の足跡」に次ぐ辻久一の企画で、終戦後初めての民門敏雄の原作を「王将(1948)」の伊藤大輔がシナリオを書き「黒雲街道」の森一生が監督に当たる。カメラは「夜の門」「春爛漫狸祭」の牧田行正である。出演者は「天狗飛脚」の市川右太衛門「三十三の足跡」の月形龍之介や「遊侠の群れ」の坂東好太郎をはじめ「天狗飛脚」の相馬千恵子、「三十三の足跡」の喜多川千鶴らが出演する。
加賀百万石を天下に誇る頃。江戸全市の大部分は武家地、大名屋敷が占有し、その残りが一般の庶民街であった。その大名屋敷の消防には各藩毎にお抱えの大名火消しがあり、これに対し町人街の消防には、いろは四十八組、その他の町火消しがあったが、一たん出火の際は大名屋敷はそのお抱えの火消し以外の消防を許されず、町火消しの救援は絶対に禁止されていた。--時に京和発亥、閏一月の中浣。加賀百万石前田家の支藩、拾万石大聖寺藩の上屋敷、下谷池ノ端上、松平飛州邸より出火!!時を移さず本家前候の抱え火消し名代の加賀鳶が出動、鳶頭の勘蔵は(大名屋敷炎上の際には、その表門さえ免れればおトガめ無しにすむというのが当時幕府の慣例であった)藩邸正門を無事にする為には手段の如何を問わなかった。たとえその為には万戸の町人街を焼き払うとも。炎々と燃え盛った跡は無残にも町火消し八幡のわ組の努力も空しかった。しかしながら、勘蔵と松五郎はこの被害者に対する始末を考慮したが、武家抱え火消しと町火消しとの対立が漸次激しくなっていった。時に松五郎の男振りを愛する竹本富士彌の踊師匠お藤や愛弟子豊沢正菊ことお菊、彼女を慕う松五郎の組下の与之助たちは、抱え火消しの勘蔵の町民街の援助をめぐって、お互いの腹のさぐり合いが始まった。この中に土屋源太夫、相模屋太兵衛たちの悪計は事の次第をますます悪化してゆくばかり。遂に松五郎、与之助、お藤、お菊の身辺に、命の代償金の迫害がかけられる。これを保障する勘蔵の腹は?遂にその日は来たが--突如板木に半鐘の乱打「火事ァどこだ-ッ」との叫び声。百万石を焼くか、町家を焼くか、松五郎は「よし、百万石も焼いちゃいけねえ、江戸の町家も焼いちゃならねえ」勘蔵は「焼けねえ!」異例の抱え火消しと町火消しいり混じっての火防ぎ、松五郎はお藤の笑顔を自信ありげに。そして与之助とお菊も--かくて「町火消しは武家地に、大名火消しもまた民間の出火に出動せよ」という新しい規則がここに生まれた。
松五郎
与之助
勘蔵
お藤
お菊
竹松
金太
久七
亀太郎
お筆
六兵衛
安吉
納平
辰吉
伍平
土屋源太夫
相模屋太兵衛
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