広島・長崎で被爆した山口彊さんを追ったドキュメンタリー「二重被爆」の続編。胃ガンが進行しても語り部として反核の思いを訴えた山口さんが93歳で亡くなるまで、その遺言の意味を描く。山口さんを見舞ったジェームズ・キャメロン監督の姿も。監督は、「二重被爆」企画の稲塚秀孝。語り・テーマ曲は、歌手の加藤登紀子。
ストーリー
1945年5月、三菱重工業長崎造船所で造船設計技師を務めていた当時29歳の山口彊さんは、妻と生後3ヶ月の息子を長崎に残して、広島造船所へ3ヶ月の出張に出向く。長崎へ戻る日の前日である8月6日朝、山口さんは造船所への出勤途中、爆心地から3キロ地点の芋畑で被爆する。閃光を咄嗟に避けたが、左半身に大火傷を負い、左耳の聴力を失う。その日は長崎から一緒に来ていた同僚2人と市内の寮の庭で過ごし、翌朝、長崎に向かう避難列車が出ると聞き、焼死体が散乱する焼け野原となった広島の町を横断する。8月7日午後、避難列車に乗り、翌8日昼に長崎に到着する。そして8月9日、山口さんは造船所に出勤し、広島壊滅の報告をしている最中、2度目の被爆を経験する。戦後、山口さんは原爆症に悩まされ、胆嚢摘出、白血球減少症などに苦しみながら、2度の被爆体験の語り部になることを心に秘めながら生きてきた。しかし世間の偏見・差別のため、語ることは控えていた。だが2005年2月、息子の捷利さんが原爆症が原因で亡くなると、語り部となることを決意する。記録映画「二重被爆」に出演すると、精力的な活動を開始する。国際連合では国連軍縮委員会の関係者、地元長崎では中学・高校生を前に反核の思いを訴えた。2008年、胃ガンの進行が判明するが、山口さんは請われれば講話に出掛けた。アメリカからやってきた高校生には英語で語った。2009年8月、山口さんは吐血し、緊急入院する。山口さんは、「タイタニック」や「アバター」のジェームズ・キャメロン監督に手紙を書き送っていた。『広島発最終列車』の取材で山口さんの元を訪ねた作家チャールズ・ペレグリーノさんが橋渡しをしてくれた。12月22日、キャメロン監督とペレグリーノさんは、入院中の山口さんを見舞った。監督は山口さんに、山口さんを題材とした映画を製作したいと伝える。