監督
太平洋戦争末期の沖縄戦で、学徒動員により傷病兵の看護に当たった積徳高等女学校の生徒たちの姿を記録したドキュメンタリー映画。積徳高女学徒看護隊の野戦病院実録『血と涙の記録』に基づき、激戦を潜り抜け、戦死者を3名に留めて生き抜いた彼女たちの体験を綴る。監督は「浦添ようどれ よみがえる古琉球」の野村岳也。
ストーリー
太平洋戦争末期の沖縄戦で動員された女子学徒隊は10校およそ500人。激戦の本島南部では、ほとんどの学徒隊が半数近くの戦死者を出した。そんな中、ふじ学徒隊の戦死者はわずか3名にとどまった。“10・10空襲”と呼ばれる1944年10月10日の空襲で、那覇市内の90%が焼け落ちた。1945年3月13日、旧那覇市中心部にあった仏教系の私立学校、積徳高等女学校の4年生56人に対し、軍命令で合宿看護訓練が行われる。しかし、戦況の変化によって訓練は10日間で中断し、米軍上陸1週間前に戦場へ送り出される。配属されたのは豊見城城址にある野戦病院壕。隊長は長野県出身の小池勇助軍医少佐。隊長が56人に従軍か除隊かの調書を取った結果、31名が除隊し、従軍した25名が“ふじ学徒隊”として勤務する。1945年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸して地上戦が開始されると、ふじ学徒隊は手術の補助、切断した手足の廃棄、傷病兵の看護など不眠不休で働いた。5月に入ると、沖縄守備軍の南部移動に合わせて野戦病院も糸洲壕へ撤退する。残された重症患者を青酸カリで処理して……。6月、家族に会うといって壕を出た学徒が戦死。学徒隊初の戦死者となる。やがて戦況の悪化に伴い、各地の学徒隊に解散命令が下る。戦場に放り出された多くの女子学徒たちが命を落としていく中、小池隊長は戦闘が沈静化した6月26日にふじ学徒隊へ解散命令を発令。隊長の最後の訓示は“必ず生き残れ。親元へ帰れ”だった。そして、小池隊長は青酸カリにより自決。2,3名ずつ組を作って壕を脱出した学徒隊は、ほとんどが米軍の捕虜になったが、最初に脱出した3人は日米両軍の交戦に巻き込まれ、学徒隊2人目の戦死者を出す。終戦後、戦争体験による心の傷から自ら死を選んだ学徒を、ふじ同窓会は3人目の戦死者として慰霊碑に刻銘した。もし、戦争がなければ平和で楽しい青春があったはずだった……。