監督、ナレーション、撮影、編集、プロデューサー、聞き手
戦前から戦中にかけて、防諜、謀略、秘密兵器の開発拠点として極秘裏に存在した陸軍登戸研究所。終戦時の証拠隠滅によって歴史から姿を消したこの組織の実態に、当時の研究員や作業員たちの証言から迫ったドキュメンタリー。6年もの時間をかけて関係者の証言を収集したのは、「メコンに銃声が消える日」も手掛けた楠山忠之監督。2012年キネマ旬報ベスト・テン文化映画第三位。
ストーリー
第一次世界大戦は、それまで武力戦だけだった戦争の形を変えた。空中から爆撃できる飛行機。構築物を破壊して突き進む戦車。瞬時に多数の敵兵を殺傷する機関銃。さらに、生物化学兵器の扉を開けた禁断の毒ガス兵器。こうした新兵器の登場で、非戦闘員も巻き込む無差別大量殺戮時代に突入する。大戦が終結した1919年、日本も毒ガス兵器の研究に着手し、東京都新宿戸山ヶ原に陸軍科学研究所を設立。8年後には“秘密戦資材研究室”を置き、諜報、防諜、謀略、宣伝的行為および措置に対抗できる資材や兵器の開発を進めた。37年にはこれを担当する陸軍参謀本部第二部八課が誕生。同年7月、中国で発生した盧溝橋事件を機に戦線を拡大した日本軍は、12月に南京を占領。時同じくして神奈川県川崎市生田の丘陵地に電波兵器開発を目的とした陸軍の“実験場”が設立され、“登戸研究所”と呼ばれるようになる。やがて、太平洋戦争へと拡大する戦乱に歩調を合わせるように、次々と研究棟を増築、所員も一千名に及んだ。ここでは、殺人光線、毒物や爆薬の開発、風船爆弾、ニセ札製造など、様々な秘密兵器、謀略兵器を発案する一方で、実験中の所員の事故死、中国での生体実験による“殺戮”など、戦場から離れた場所でありながらも、その歴史に汚点を残した。研究所内外を問わず、言動は憲兵の監視下にあったが、将校以外はサラリーマンと変わらない平服で、所長の指示で勉学や専門技術を習得する時間も与えられた。戦後はその蓄積で専門職に就いた者が多い。近隣の貧しい農村の人々にとって、現金収入が得られる“登研”は憧れだった。中には徴兵逃れのため入所した者も。その反面、傘下に多くの下請けを抱えた“登研”はブローカー的側面も持ち、命じられた国策研究を拒む大学には一切の研究費も資材も与えられなかった。“自由で楽しかった”と懐かしむ元所員は多いが、水面下では“右向け右”の時代の風が吹いていた。