台湾・金門島で、砲弾を材料に包丁を作る職人の姿を追ったドキュメンタリー。中国・厦門からわずか10kmの金門島は第二次世界大戦後、20年以上に渡って国民党軍と共産軍の激戦の舞台となった地で、その時の砲弾で作った包丁に込められたメッセージを描く。監督は、「おみすてになるのですか 傷痕の民」の林雅行。
ストーリー
台北の松山空港から中国大陸に向かって約1時間のフライトで行くことのできる金門島は、150平方kmの小さな島で、中国・厦門までわずか10kmに位置している。高梁畑が広がる島の所々には石獅爺という魔除けの像が立ち、渡り島が羽を休める安息の地でもある。古くからのビン南建築の家屋や南洋で財を築いた華僑たちの館が建ち、島民は豊かな魚介類と郷土料理、高粱酒に酔う。対岸には、厦門の夜景が蜃気楼のように浮かぶ。金門島は第二次世界大戦後、国共内戦で敗走する国民党軍と追撃する共産軍の間の決戦、1949年10月の古寧頭戦の地でもある。金門島に押し寄せた3万人の共産軍を国民党軍が撃退し、以来、国民党軍は10万人の兵を金門島に配備した。台湾解放を目指す毛沢東と、大陸反攻を掲げる蒋介石は対峙し、1958年8月23日、共産軍が600門の大砲で金門全域に砲撃する823砲戦が勃発する。共産軍は数週間にわたって50万発の砲弾を撃ち込み、1978年まで双方の軍による宣伝弾の撃ち合いは続いた。54歳の呉増棟さんは、この砲弾を材料に包丁を作る。呉さんの祖父の代には、厦門で作った農具や漁具を父が金門で売っていた。父の代になり金門に移住すると、父が島の砲弾で包丁を作り始めた。呉さんは、少年時代を戦時体制のなか過ごした。1992年まで軍事管制が敷かれていた金門では、島民の生活は大幅に制限され、要所には地下坑道が造られた。今、呉さんは、「砲弾は空からの贈り物だ」と語る。大陸から船で1時間の金門には、台湾人だけでなく、多くの中国人観光客も訪れる。彼らは呉さんの工場を見学し、包丁を買い求める。呉さんが包丁に込めたメッセージとは……。
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