鈴木敏夫プロデューサーが“ナウシカ”映画化の原点を回顧「『ちょっとだけやろう』というのが、すべてのきっかけ」|最新の映画ニュースならMOVIE WALKER PRESS
鈴木敏夫プロデューサーが“ナウシカ”映画化の原点を回顧「『ちょっとだけやろう』というのが、すべてのきっかけ」

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鈴木敏夫プロデューサーが“ナウシカ”映画化の原点を回顧「『ちょっとだけやろう』というのが、すべてのきっかけ」

スタジオジブリの不朽の名作『風の谷のナウシカ』の特別上映イベントが、「東京アニメアワードフェスティバル2021(以下:TAAF2021)」にて、3月13日に池袋のグランドシネマサンシャインで開催された。本作を手掛けた鈴木敏夫プロデューサーがオンラインで登壇し、雑誌「アニメージュ」から本作がアニメーション化に至った経緯など、当時の貴重な話を語った。

3月12日から3月15日(月)の間、池袋で開催中の国際アニメーション映画祭「TAAF2021」。今年はアニメ功労部門顕彰者に鈴木プロデューサーをはじめ、原作者のさくらももこ、脚本家の小山高生、富野由悠季監督、アニメーターの才田俊次、編集の瀬山武司、歌手の伊集加代、声優の羽佐間道夫が選ばれており、本イベントは鈴木プロデューサーの本賞を記念した特別上映として開催された。

【写真を見る】後ろにネコバスが!『風の谷のナウシカ』映画化の原点を語った鈴木プロデューサー
【写真を見る】後ろにネコバスが!『風の谷のナウシカ』映画化の原点を語った鈴木プロデューサー

上映後の本イベントでは、司会としてジブリ美術館シニア・アドバイザーの高橋望が登壇した。宮崎駿原作の同名漫画を、宮崎自らが脚本と監督を手掛け、劇場アニメーション化した本作。冒頭で高橋は本作について、「歴史的に考えると非常に重要な、結節点となったような作品」だと表現。オンラインでステージ上の大画面に登場した鈴木プロデューサーについては、「1978年から月刊『アニメージュ』という日本で初めての本格的な商業アニメーション専門誌を中心で作られた人。その78年頃からナウシカが公開される84年頃までは、日本のアニメーションがいまに至る発展につながる非常に重要な時期だった。ここでいろんな発見があったし、ファンも大きく広がり作り手も変わった。その時期がなければ、いまにつながるアニメーションの大きな広がりはなかったと思う。その中心でファンや作り手にとって大きな影響を与えたのが鈴木プロデューサー」だと紹介した。

司会を務めたジブリ美術館シニア・アドバイザーの高橋望
司会を務めたジブリ美術館シニア・アドバイザーの高橋望

元々は「アニメージュ」を作っていた編集者であった鈴木プロデューサー。編集者時代にやっていたことがその後のジブリの活動にダイレクトにつながっているが、「アニメージュ」創刊時に話が及ぶと「(アニメージュ初代編集長で当時鈴木の上司でもあった)尾形(英夫)って人にいきなり喫茶店に呼ばれて、『アニメージュ』を作ってほしいと言われたのがスタート。新しい雑誌が出るんだな、くらいに思っていたら、喫茶店に呼びだされて作ってほしいと。びっくりした」と述懐。「アニメーションについて全然詳しくなかったし不安だった」とも明かし、当初は外の編集プロダクションと一緒に作ることになっていたものの、もめて尾形編集長がクビにしてしまったという裏話も飛びだしつつ当時3時間かかってくどかれたという鈴木。「なんのためにやるのか?」と尾形に聞いたところ「自分の息子がアニメファンなんだと。息子のために作ってくれと。僕としては相当驚いた。公私混同でしょ(笑)」と明かし、しかしそのなかで「一つの雑誌が一人の個人的なそういう事情で生みだすことができるというのは、もしかしたらやってみたらおもしろいのかもしれないと考えた」と決断の理由を語った。

当時の貴重な話を笑顔で話す鈴木敏夫プロデューサー
当時の貴重な話を笑顔で話す鈴木敏夫プロデューサー

多くのクリエイターを輩出した「アニメージュ」。鈴木もその中で後に大きな関りを持つことになる宮崎駿や高畑勲ら多くの人々との出会いがあったわけだが、印象に残っている人を聞かれると「宇宙戦艦ヤマト」の西崎義展プロデューサーを挙げる。「プロデューサーシステムで作品を作った最初の人。すごくおもしろい人。いろんな評価があるけれど、非常にピュアなものを持った人だった」と回顧。続いて2人目には「僕にとって忘れられない」という「機動戦士ガンダム」シリーズの富野由悠季監督を挙げ、「雑誌を作っていくなかでいろんな話をして、テレビでいろいろとやっている間に映画案を考えて、実際に映画が封切られることになって…。そういうことも含めて富野さんて人はやっぱりおもしろい」と自身が大きく影響を受けた2人を振り返り、「小説とかがあんまり元気がない時代だった。そんな時にアニメ―ションの世界をのぞいてみたら、すごい元気な人がいっぱいいた。こんなところに作家がいたんだ」と大きな発見だったことを明かした。

当時の貴重な裏話が次々と飛びだした本イベント
当時の貴重な裏話が次々と飛びだした本イベント

そして『風の谷のナウシカ』の製作につながっていくが、もともと映画ファンだったという鈴木。「フランスの映画の状況をよく知っていた。“ヌーヴェルヴァーグ”ってフランスなんだけど、もとになったのが一冊の雑誌だった。なのでヤマトやガンダムをやりながら、一つの雑誌から映画を生みだすというのは、どっかでできるのではと途中から思っていた」と明かす。アニメージュを作りながら作家たちと出会い、『風の谷のナウシカ』を製作していった鈴木。しかし大きなきっかけは、やはりアニメージュ初代編集長の尾形の存在だったといい「その時も緒方さんが突然、なにかを映画にしようと言いだした。言いだしっぺは尾形さん。映画にしようよ敏夫くん、ちょっとだけやろうって(笑)。でもその『ちょっとだけやろう』っていうのが、すべてのきっかけだなっていうのが彼から学んだこと」だと笑顔で話した。

また、プロデューサーとして一人立ちしてやっていこうと決めたタイミングを聞かれると、「それはジブリを作る時。『風の谷のナウシカ』は実を言うと違う会社で作っていたんだけど、次に『天空の城ラピュタ』を作らないとという時に、その会社が機能を果たせなくなった。その時に集まっていたメンバーが、高畑さんと宮崎さんと僕。それで宮崎さんが高畑さんに向かって、高畑さんは作る人だからプロデューサーは鈴木さんだよねと。ずるいこと言いやがってと思って(笑)。でもそれがきっかけだったことは確か」だと振り返った。

4月15日(木)から5月5日(水・祝)には、松屋銀座にて『「アニメージュとジブリ展」一冊の雑誌からジブリは始まった』が開催される。

取材・文/富塚沙羅

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    192
    宮崎駿の同名漫画を原作に、宮崎自身が監督・脚本を手掛けた劇場アニメーション