孤島に投げ込まれた“絶交”という小石。劇作家・松井周が『イニシェリン島の精霊』を解く
第76回英国アカデミー賞でも英国作品賞など主要4部門を受賞するなど、快進撃を続けている『イニシェリン島の精霊』(公開中)。日本時間3月13日に開催される第95回アカデミー賞授賞式を前に、主要8部門9ノミネートを果たした本作を見逃していたら、ぜひスクリーンで目撃してほしい。
マーティン・マクドナー監督が自身のルーツであるアイルランドに回帰して描いた本作。劇作家マーティン・マクドナーにとって「イニシュマン島のビリー」に「ウィー・トーマス」、そして本作の元となった「イニシィア島のバンシー」(未上演)と、アラン諸島を舞台にした作品作りはライフワークと言っていい。そんな『イニシェリン島の精霊』を、劇団「サンプル」を主宰する劇作家・演出家・俳優・小説家の松井周がレビュー。「マクドナーの作品はどこか思考実験のようなところがある」と評する松井は、ブラックユーモア満載の本作をどう捉えたのか?
※本記事は、ストーリーの核心に触れる記述を含みます。未見の方はご注意ください。
マーティン・マクドナー主催のデスゲーム。“密室実験”に付き合う怖さと面白さ
最初の5分でもう面白い。主役二人のことをほぼ知らないのに「絶交」という、誰にでも起こりうる出来事が起こってからは、もう他人事ではなくなる。音楽家のコルムが家畜と暮らすパードリックを全身で拒絶する。小さな島の小さな出来事。それはとても小さいことのようだけれど、パードリックにとっては今までの人生がひっくり返るほどの事態だ。個人的な諍いのようで、否応なしに周りを巻き込んでいく。
「無駄な話をしている暇はない。自分のやりたいことに専念する」というようなことをコルムはパードリックに告げるのだが、これ、歳をとってから言われるとかなりキツいなと思う。歳をとるということの辛さは、例えば若い人たちと意見が合わないとか、社会の中で「役に立たない存在」として扱われることだと思っていたが、そのへんは実は同じような境遇の友達がいれば愚痴を言ってやり過ごせる。しかし、もはや腐れ縁とも呼べる友達に絶交を突きつけられるほど辛いことはないかもしれない。自分たちの人生はこんなもんだろうと大体の見通しが着いてから後は、平凡な毎日をやり過ごし、死を思うのは後回しにして無駄話に興じたいのに、一方は「自己実現」のようなモットーを掲げてしまい、他方はそんな大層なことは考えずにいたので面食らう。「『自己実現』をしない者はバカだ」と言われているような気にもなる。もちろん、コルムは音楽家なので、ただヴァイオリンで作曲したいという素朴な欲求ではあるし、本土での内戦がこの島に危機を告げているからこその行動なのかもしれないが。
例えばサスペンス映画だとしたら、事態は深刻化していくが謎は解けて終わりという方向に進むのかもしれないが、この映画はそんなふうには進まない。あるいはヒューマンドラマのように、何か止むに止まれぬ事情があって仕方なくとか、いずれ良い方向に向かい、和解に達するというわけでもない。観ているうちに何かが腑に落ち、何かが解決するという望みは早々に捨てた方がいいかもしれない。
実は答えは最初から出ている。そのことを飲み込めないのが人間で、パードリックも答えが出ているのにも関わらず、事態をより悪化させてしまう。人間ってなんでこうも不器用なんだろう。ワンチャンとか万が一を期待して必死に行動するパードリックに感情移入をしてしまう。
何で感情移入をしているんだろう?よくよく考えると友達と自分の関係というものは自分の歴史でもある。その人との関係が切れてしまえば、自分の歴史も変更される。無駄話を続けてきたことで自分は相手に認められてきた、肯定されてきたように思っていたのに、その全てがひっくり返り、自分の人生が否定されるようにも感じてしまう。これが厄介だ。仲直りを望むのは、純粋に相手との関係をもとに戻したいという願望だけでなく、「いまさら自分の人生を否定しないで欲しい。肯定してくれ!」というエゴのようにも見えてくる。まさにこの映画でも、仲直りを望むパードリックの行動は、相手からするととても暴力的に映る。だからコルムもそれに見合った対抗手段を用いるしかない。パードリックの行動がいかに暴力的であるということをわからせるには、自分の指を切断していくしかない(=ヴァイオリンで作曲をする自分の指を切断させるのに等しい暴力をお前は行使しているぞ!というメッセージ)のだけれど、そこまでのことか?とも思う。やけに飛躍した行動のようにも思える。
ただ、コルム側に立つと、対岸の本土では内戦が起こっており、いつ戦火がこちらの島を襲うかもしれないという未来に追い詰められ、どうしようもなく自分の人生を悔いている可能性もある。指をなくすことで自分の人生をさらに突き詰めて考えているのかもしれない。強い感情や思考に支配されている場合、人間はパターンを外れ、飛躍した行動を取る場合だってある。それでも本人にとってはいたって筋が通っている。
ただし、マクドナーの戯曲「ピローマン」でも、映画『スリー・ビルボード』でも指への暴力描写はあるので、そのへんはフェチシズムなのかもしれない(ちなみに僕は今作を観た後、右足の甲から先の部分が切断され、それが豚足みたいに茹でられて転がっている夢を見た)。
このような二人の間の「絶交」は当人同士だけでなく、その周辺の人間関係にもひずみをもたらす。二人の共通の友達にも、パードリックの妹・シボーンにもその影響は及ぶ。友達たちはどっち側に付けばいいのかよくわからず、パードリックの悩み相談に乗りながら、思わず性格にダメ出ししたりする。パードリックは初めて自分が島民からかなりバカにされていることを知る。こういう悪気のなさは堪えるに違いない。一方のシボーンは、二人のやり取りに振り回され、この島の閉塞感にも辟易し、「自分の人生はこれでいいのか?」という根本的な疑問に向き合わずにはいられない。
そして、ドミニクにも影響はある。父親に虐待されて育ったという過去を背負いつつ、どこか間抜けで粗暴でもあるので、島民からも避けられている人物。たぶん近くにいるとイラッとするに違いないのだが、パードリックの友達は彼しかいなくなる。しかし、ドミニクは、パードリックの、ある八つ当たり行為を知って彼の元を去る。間抜けのようでいて、パードリックの良さをかなり深く理解していたにもかかわらず。
このパードリックの四面楚歌ぶりに、僕は自分を重ねてしまう。孤独は突然やってくる。あるいは、実はそもそも孤独だったことに気付かされる。それは人間関係のみではない。自分の人生がとるに足らないものだったことに気付かされ、もうやり直せないという絶望をもたらす。ギャー!となる。
しかし、この映画はそこでは終わらない。ここまではあくまでも人間をベースにした話だが、この映画にはたくさんの動物達が出てくる。犬やロバなどが人間と共に暮らしている。特にパードリックはロバのジェニーと家族のように接しているし、犬とコルムの関係もそうだ。この犬やロバがやはり「絶交」に巻き込まれて受難の道を辿ったりするのだけれど、パードリックがジェニーと交感している仲であること、しかもコルムもそこには共感できることが救いでもある。これらの動物の視点から全体を振り返れば、人間たちの摩擦や対立は取るに足らないもののようにも思えてくる。スリー・ビルボードでも主人公と鹿の交感シーンが聖性を帯びていたが、今作の場合は、人間以外の動物も普通に暮らしているということを人間だけが忘れがちでは?という問いかけなのかもしれない。
まとめとして「ピローマン」と『スリー・ビルボード』と今作を含めて俯瞰すると、マクドナーの作品はどこか思考実験のようなところがある。世界と繋がっているというよりは、箱庭の中に世界をギュッと詰め込んで、そこで事件が起きる。その密室実験に付き合う怖さと面白さなのかなと改めて思った。今作の場合、「絶交」という小石が孤島という池に投げ込まれただけなのに、その影響がクリアに観察できる。波紋のように何度も揺さぶるうちに、崩壊させていくというイメージ。主人公だけでなく、各人物や動物たちにその波紋は及んでいるので、きっと彼らの生活だってじっくりと追うこともできるだろう。舞台版があるならば、ドミニクの最期に至るまでの行動が明らかになるのかもしれない。それぐらい構造が強固であり、シンプルだ。どの人物がどの地点にいたかで、「絶交」の影響が観測できそう。ストイックにそのさまを記録していくのがマクドナーの魅力なんだろう。
最後に、不思議なおばあさんの「この島で、2つの死が訪れる」という予言はマクドナー本人の言葉なのだと思った。この作品はマクドナー主催のデスゲームであり、書き始めた時は何者が死ぬか自分でもわからなかったのではないだろうか?書きながらその密室実験を行っているように見えるからだ。これは自分の都合のいいように登場人物を動かしたいわけではない。マクドナーのこだわりは俳優への期待にあるのだと思う。たとえラストが決まっていても、俳優がある設定の中でどう振る舞わざるを得ないかを見たいのだ。まさかという出来事がおきて、窮屈で息苦しく、孤独で空虚な状態で、人間はどうしようとするのか?謎が解明したり、和解が訪れない状況でも、人間はどうにかする。その試練を俳優と共に乗り越えてみせることが目的であり、希望に繋がるとでもいうように。もちろん、常にツッコミを入れるように動物たちが画面に偏在するのも忘れてはならない。人間も動物の一種に過ぎないんだぞと無言の主張をし続ける。
文/松井 周