現役指揮者による本音レビュー。『TAR/ター』は言動、団体名…すべてリアル!?「現在のクラシック業界を凝縮したような映画」
「人間関係に葛藤してしまうターも、自然に描写されていると思いました」
さて、ターの転落の鍵を握るのは、アシスタントで副指揮者を目指すフランチェスカ(ノエミ・メルラン)。2人のいびつな関係性も、実によく分かるそう。「政治の独裁者がそうであるように、腹心が自分の立場を脅かすようになってきたら粛清する、という図式は昔からありますよね」とまたも恐ろしい内情を明かしてくれる。劇中、ターは新たな副指揮者候補を選出しようとするのだが、「ターにとっては、さほど有能ではない現在の副指揮者のセバスチャン(アラン・コーデュナー)くらい時々すっとぼけたことを言ってくれる人のほうが、地位的には落ち着いていたのかもしれません。実務は優秀なフランチェスカに任せたいけれど、それ以上になると彼女にとって脅威になる。自分よりオーケストラ団員の信頼を得てしまうのが怖い。そうした人間関係に葛藤してしまうターも、自然に描写されていると思いました」と、頂点に立つ厳しさと危うさに驚くばかり。
ちなみに坂入が、これが“ターの転落のトリガーとなった言動”ではないかと分析したものがある。ネタバレを含むので詳細は控えるが、「テンポと時間のコントロールが最も大事」と語るターとは対極にある坂入のモットー、「とにかくオーケストラへの信頼。オーケストラを信用すること」が、逆説的に重要なヒントとなるだろう。それを見失った瞬間に、「一つずつターの歯車が狂っていった」と見る坂入。副指揮者セバスチャン、アシスタントのフランチェスカ、新人チェロ奏者で、その奔放な振る舞いと才能でターの心を揺るがすオルガ(ソフィー・カウアー)、プライベートのパートナーとしてもターを支えるコンサートマスターのシャロン(ニーナ・ホス)。4人を巡るターの言動に息を詰め、謎解きのように「これか!」と見つけて欲しい。
「その場を『支配』している感じが、とにかく指揮者っぽい」
そんなターを演じたブランシェットの名演が遺憾なく発揮されているのは、「最初のインタビューのシーン。あの姿は、頂点に君臨する指揮者っぽい。『すべてわかっているの』という感じのしゃべり方、『従来の音楽の考え方はこうだけど、さて皆さん、これでいいと思いますか』という議論の持ち掛け方や、にじみ出る自信、理路整然と論破しつつ、笑いも取れちゃうような、その場を『支配』している感じが、とにかく指揮者っぽい」と舌を巻く。「ターが顔面に怪我を負った次の日のリハーサルで、驚くオケ団員に、ちょっとウィットに富んだことを言って笑いを取ります。まさにアレも指揮者っぽい」と例を挙げる。
上記のシーンはもちろん「全編にわたって指揮者の多面性を非常に上手く表現されていました。自信が漲っていたかと思うと突如不安に襲われたり、オケからすごくいい音が出た時に『そうでもない』と言ってみたり。指揮者っていい音が出た瞬間、冷静になって、さらに高みへ向かう道標を伝えていかねばならないのです。そして、ピアノを弾いて作曲する姿や静かに本を読む姿などもあんなリアルに演じきれるなんて…信じられないです!」と驚きを隠さない。「ターが作曲で悩んでいた時、可愛いチェロ奏者(オルガ)に『こっちのほうがいいわよ』と言われてキュンキュンしちゃうのも、すごく分かる(笑)。自信たっぷりに見えても指揮者って実は孤独なんです。ああいった天真爛漫な人に心惹かれていくのもわかります。僕はターのような偉い指揮者じゃないですから、普通に友達と飲みに行っちゃいますが」と指揮者・坂入も絶妙に笑いをまぶす。
果たしてターが目指す“マーラーの交響曲第5番の録音”や曲の完成、ターが行きつく先は…。「本作はマーラーやエルガーなどの重厚なクラシック音楽だけでなく、民俗音楽も印象的に使われています。僕も民俗音楽をオーケストラで演奏したりしますが、民俗音楽とクラシックって非常に密接なんです。ターも学生時代に東アマゾンで民俗音楽の研究をしていた、という説明が冒頭にあります。ターの根源である民俗音楽の世界が、ターにとって終始救いとなっているように僕には思えました。そうじゃないと、僕の不眠が解消しない(笑)」と、本作は音楽ひとつをとっても、幅広い魅力を含んだ映画であることを教えてくれた。
取材・文/折田千鶴子