連載40周年を迎えた「北斗の拳」原哲夫を直撃!「22歳の若き自分がそれまでの人生で好きだったものを詰め込んだ作品」
1983年に「週刊少年ジャンプ」誌上で連載をスタートし、少年漫画誌の歴史において大きな転換点とも言える影響を与えた大ヒット漫画「北斗の拳」。世界的な核戦争によって文明と秩序が失われ弱肉強食となった世界を舞台に、一子相伝の暗殺拳“北斗神拳”の伝承者であるケンシロウの戦いを描く物語は、今年で連載開始から40周年を迎える。40周年を祝して、スタチューメーカーの「プライム1スタジオ」からはケンシロウとユリアを造形した最新フィギュアのリリースが発表。作品のイメージを体現するアニバーサリーに相応しいフィギュアを前にしながら、「北斗の拳」の産みの親の一人である原哲夫先生に作品の誕生秘話や物語に込めた想いなどを振り返ってもらった。
※プライム1スタジオの手掛ける製品は「スタチュー(彫像)」と呼称される。工業製品である「フィギュア」とは一線画した調度品的な側面の強い造形製品。本インタビューでは以降一般的な表現として「フィギュア」という名称にて記載。
少年時代2人の男の存在に絵心をくすぐられたのが、原哲夫の漫画の原点
原が漫画家デビューをしたのは、1982年。当時は、小学館の「週刊少年サンデー」で連載していた「うる星やつら」や「タッチ」が大ヒットし、ラブコメ漫画ブームとも呼べるタイミングだった。当時の担当編集であったジャンプ編集部の堀江信彦の提案を受けて、モトクロスバイクレースを題材とした「鉄のドンキホーテ」で初の週刊誌連載をスタートさせる。しかし、この連載は決して好調なものではなかった。デビュー当時のことを、原はこう振り返る。
「僕がデビューしたのは、劇画ブームが終わって、ラブコメ漫画がブームになっているという、ちょうど端境期のころで。自分としてはシンプルな線の漫画ではなく、劇画をやりたかったんですが、『少年ジャンプで連載するのだからもうちょっとシンプルな線にしてほしい』と言われて。だから『鉄のドンキホーテ』では本来の自分の絵をちょっと変えて描いていたんですが、残念ながら人気が出なかった。それで自信をなくしてしまって。そこから、『北斗の拳』を描く準備に入ったという感じですね。
堀江さんには、デビュー前から自分が拳法漫画を描きたかったということは伝えていたので、いろいろ資料を探してくれたんです。経絡秘孔などについての本を中国の古書店で見つけてきてくれて『こういう必殺技を考えてみたらどう?』とか、“ 北斗の拳法”を使うみたいな設定をいろいろ一緒に考えてくれて。そうして固まってきた内容だったら自分がやりたいことができるなと。それが『北斗の拳』の始まったきっかけですね」。
こうした経緯を経て、1983年月刊誌「フレッシュジャンプ」誌上にて、読み切りの短編作品として「北斗の拳」が掲載されることになる。読み切り版では、「週刊少年ジャンプ」で連載された作品のベースが作られているが、設定は異なり現代を舞台に恋人を殺された主人公・霞拳四郎が北斗神拳を駆使して、暗殺組織である泰山寺と戦う物語が描かれた。そうした、細部の設定こそ違っていたが、読み切り版の段階で「北斗神拳」の設定はでき上がっており、魅力的な作品として完成する。では、なぜ「北斗の拳」のような作品を描きたいと思ったのだろうか?
「もともとブルース・リーと松田優作さんが大好きだったんです。小学校、中学校のころは松田さんの『太陽にほえろ』『蘇える金狼』『野獣死すべし。』の影響を受け、高校生のころはブルース・リーの『燃えよドラゴン』を全部漫画で描き下ろしたいと思ったりもしていました。思春期に好きになったんですが、そのころにはすでにブルース・リーは亡くなられていて、松田さんも現場から退いた時期がありました。当時はもう彼らの活躍を見たくても新しい作品を観ることができなかったので、2人を自分で描きたいと思ったのが原点です。2人とも男の子が憧れる格好よさみたいなものを持っていて。高校生のころは、みんなは憧れの人になりたいからモノマネをしていたんですが、僕は自分ではやらないけど憧れの人を絵に描きたいというタイプだったんです。そうした想いが、『北斗の拳』の執筆につながっていきました」。
そして、この読み切り版「北斗の拳」の成功が、原作に武論尊を迎えての連載、さらに大きな成功へとつながっていく。
天空に輝く北斗と南斗の愛。
40年の想いを込め、究極の造形で立体化!
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■「北斗の拳40周年大原画展」
2023年10月7日(土)~11月19日(日)
森アーツセンターギャラリーにて開催
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