映画ファンこそハマる!劇場版クオリティで描く「戦隊大失格」の“アンチヒーロー"な魅力
日本の作品ではあまり描かれなかった“アンチヒーローもの”の魅力
ここからは、「戦隊大失格」で描かれる“アンチヒーローもの”の魅力に迫っていきたい。ドラゴンキーパーのリーダーであるレッドキーパー(声:中村悠一)をはじめ、本作に登場するヒーローは人々の思う正義の姿からかけ離れて、傲慢でエゴイスティックな性格であり、力と権力、大きな資本力を持ち、“正義”という概念からは遠く離れた存在となっている。この歪んだ“正義”に対し、いわゆる敵(=ヴィラン)が立ち向かう構図は、日本の特撮やアニメなどではこれまであまり描かれることがなかった。
一方、アメリカンコミックスやそれをもとにした映画、ドラマシリーズでは、わりと早い時期から、「特殊能力を持つスーパーヒーローは本当に正義の存在なのか?」を問う物語がいくつか描かれている。その代表とも言えるのが、ザック・スナイダー監督による映画や、HBOのドラマシリーズでも知られる「ウォッチメン」だろう。原作を手掛けたアラン・ムーアは、1980年代まで子ども向けだと言われていたアメリカンコミックスに文学的な要素を取り入れることで、物語性を向上させ、大人も楽しむことができるメディアへと変化させた人物の一人。
歴史が改編された1980年代後半のアメリカを舞台にした「ウォッチメン」は、東西冷戦という当時の社会情勢のもと、政府に管理されたヒーローが登場する。そして、そこに隠された大きな陰謀を暴こうと行動するのは、非合法活動をしているとレッテルを貼られた元ヒーロー。強大な力を持つヒーローが脅威となるなかで、小さき存在が一人乗り出す状況は、「戦隊大失格」の主人公である戦闘員Dの行動と共通している要素だと言えるだろう。
そして、近年注目されたスーパーヒーローとその敵対者の立場が逆転した物語と言えば、ドラマシリーズ「ザ・ボーイズ」(Amazon Prime Videoにて配信中)もある。巨大企業に雇用されたスーパーヒーローたちが、超人的な能力を駆使してアメリカの平和を守っているとされ、ヒーローたちはエンタテインメントのポップアイコンとして憧れの存在として描かれる世界。その裏にはアメリカ政府や他国がヒーローを特殊兵器として恐れ、ヒーローたちも自分たちが特別な存在として扱われていることを認識して傍若無人に過ごしている。
「ザ・ボーイズ」において最凶の存在として描かれるヒーローのホームランダーは、大きな力を持つが精神的に不安定で、かつ力に溺れ傲慢な存在となっている。その強大な力に挑むのは、ヒーローに隠された間違いを世に知らしめたい、小さき者である普通の人間たち。信頼できない相手に振るわれる大きな力への不安を、“スーパーヒーロー”という存在に置き換え、正義の在り方を問う形式は「ザ・ボーイズ」も「戦隊大失格」も似た要素を持っている。
日本のヒーローものを踏まえた、善悪の逆転劇の真意
敵側である人間が、ヒーローに立ち向かう要素を持つ作品は、映画化もされた「スーサイド・スクワッド」やマーベルコミックスの「サンダーボルツ」など、かつてはヴィランとして活動していた者が集められ、ヒーローでは行えない“汚れ仕事”をこなすという作品が多数登場している。また、「ヴェノム」や「デッドプール」といったヒーロー的な倫理感を持たないキャラクターの作品も多い。ヒーローたちの正義の考え方が逆転したり、正義の在り方で対立したりする作品もあり、そうした“正義の在り方”にその時々で疑問を呈し、新たな価値観を提示、模索する役割として、“アンチヒーローもの”はアメリカンコミックスのなかで一つのジャンルとしてしっかりと息づいている。
一方で、日本のヒーロー作品では、いわゆる悪役的なヒーローが活躍する“アンチヒーローもの”は存在しても、ヒーロー作品の描き方の構造をひっくり返し、批評的にヒーローものを描いた作品はあまり多くない。「戦隊大失格」は、ある種のメタ的なストーリー展開をしたヒーローものとしても素直に楽しむことができるが、そこに“アンチヒーローもの”という視点を追加することによって、さらにもう一歩踏み込んだ形で作品を楽しむことができるかもしれない。
日本のヒーローもののフォーマットを踏まえながら描かれる、善悪の逆転劇の真意。そこに想いを馳せて、より深く「戦隊大失格」に込められた要素を読み解いてみてほしい。
文/石井誠