黒沢清監督が語る、“源流・原点”と蓮實重彦の映画理論「顔のクローズアップで奪われるものもある」【『Cloud クラウド』公開記念インタビュー特集】
国内外で高い評価を受ける黒沢清監督が、菅田将暉を主演に迎えた『Cloud クラウド』(公開中)。第97回アカデミー賞国際長編映画賞の日本代表作品にも決定し、第29回釜山国際映画祭では、その年のアジア映画産業に大きく貢献した人物を表彰する「アジアン・フィルム・メーカー・オブ・ザ・イヤー」を黒沢監督が受賞するなど、黒沢ワールドの魅力に世界の映画ファンが熱狂している。
『Cloud クラウド』の公開を記念して、黒沢監督にとことん語りまくってもらうインタビュー連載を展開中。第4回は、黒沢監督の「源流・原点」をテーマに、映画評論家の轟夕起夫がインタビュー。映画との付き合い方や、再構築したい“映画の文法”、師・蓮實重彦による理論の解釈まで語ってもらった。
「生活を変えたい」という想いから、世間から忌み嫌われる“転売ヤー”を副業として、日々まじめに働く主人公の吉井(菅田)。ある日、勤務するクリーニング工場を辞職した吉井は、郊外の湖畔に事務所兼自宅を借り、恋人である秋子(古川琴音)との新たな生活をスタートする。転売業を軌道に乗せていく吉井だったが、彼の知らない間にバラまいた憎悪の粒はネット社会の闇を吸収し成長。“集団狂気”へとエスカレートしてしまう。前半は冷徹な「サスペンス」、後半は1990年代の黒沢監督作品を彷彿とさせる「ガンアクション」と、劇中でジャンルを転換する構成で観客を呑み込んでゆく。
「おもしろくてまったく分析できないことは、いまもよくあります」
――この『Cloud クラウド』で初めて組まれた菅田将暉さんですが、聞くところによると、菅田さん主演の映画やテレビドラマをいろいろご覧になられていたそうで。そういった作品を観ながら、「自分だったらこう演出するのに」と思うことなどあるのでしょうか?
「ある、と言えばそうですかね。最初は無論、“自分だったらどうしよう”というのは考えずに見始めます。純粋に“お楽しみ”として見終わることもあるのですが、途中で『なるほど〜、この手があったか』とか『あれ?僕だったらこうするな』だとか、いきなり仕事モードが発動してしまうこともあります」
――やはり職業柄そうですよね。商業映画監督になられてもう、何十年も経っていますけど、例えば1970年代、8ミリ映画を撮り始めたころは、もうちょっと映画との付き合い方が違っていましたか。
「そこは、昔から“お楽しみ”であり、でもこの映画はどうやって作られているんだろう、というのはよくありました。1回観て、これはすごい映画だと感じ、2回目は、どう撮られ、どんな演出がされているのか、よーく凝視してみようとなる。で、勇んで臨むのですが、結局すぐにのめり込み、分析できないまま『また単に観てしまった』となる作品も多々ありましたよ(笑)」
――それって、映画への最高の誉め言葉です!
「おもしろくてどう撮っているのか、まったく分析できなかったっていうのはいまもよくあります。近年ですと『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』。どう撮ってるんだろうって3回ぐらい観たんですけど、結局見呆けてしまいました」
――そもそも黒沢監督はアメリカ映画好きで、1975年、立教大学に入って多大な影響を受ける蓮實重彦さんの「映画表現論」を受講する以前から、そういうエンタメ作品をたくさん浴びていましたよね。
「ええ。サム・ペキンパー、ロバート・アルドリッチ、リチャード・フライシャー、ドン・シーゲル、トビー・フーパーの作品など、『うわー、おもしろい』という娯楽映画と無数に出会えていました。その時の体験や記憶はベースとしてもちろん、非常に強く残っています」
「“映画の文法”が成り立つ世界を、僕なりに再構築したい」
――『Cloud クラウド』はまさにエンタメ作品で、黒沢映画おなじみのスクリーンプロセス(あらかじめ用意した映像をスクリーンに投影、背後にしてスタジオで俳優が演技を行う)も出てくるわけですが、個人的には新東宝、中川信夫監督の『地獄』(60)を連想したんです。菅田さん演じる吉井のアシスタント、奥平大兼さんが担った“佐野”が同じくメフィストフェレス的でして…。
「ああ〜、主役の天知茂に対し、沼田曜一さんが演っていたあの不気味な男ですか!奥平くんにお願いした佐野については、『どういう設定なんですか?』といろんな人に訊かれました。劇中では、なにか組織に属しているようなことを仄めかしますが、アシスタントとして、主人公をどこかとんでもない地点へ導いていく。僕もある時から、『わかりやすく言えば悪魔です』と答えていました。西洋の悪魔とは若干違うかもしれませんけど悪魔的な存在。中川監督は好きですし、沼田曜一さん的なイメージは、指摘されてみればあったかもしれません」
――黒沢監督の体内に染みついている別の側面、往年の怪奇ロマン、あるいは恐怖映画のテイストが、顔を覗かせたのが興味深いです。
「ざっくり言いますと、映画ならではの時空間、“映画の文法”が成り立つ世界を僕なりに再構築したいと常に思っているんです。けれども現代の日本映画で試みるのは簡単な作業ではなく、目の前の現実から始めたら、なかなかその世界に辿り着けないんですね。これは随分と前から自覚していて、撮影所システムが健在だった往年の作品を見ると、冒頭からあっという間にその“時空間”に突入してしまっている。日本でいま、それをやろうとすると現実を無視してスタートするしかないのですが、さすがに完全に軽んじることはできません。ここが何十年にわたって四苦八苦し、毎回自分を葛藤させている課題なんですよ。例えば先ほどの『ザ・スーサイド・スクワッド』みたいな、ある種のアメリカ映画は平気で現実と映画的な“時空間”がスムーズに融合しているようでいて、本当に羨ましい。だから自分の作品でもどこかのタイミングで、現実のトレースではない、映画ならではの世界に踏み出し入っていきたく、その一つがあのスクリーンプロセスの場面でした。スタジオで照明などをコントロールできますし、映画的ななにかが作動してくれるんじゃないか、とね」
――『クリーピー 偽りの隣人』(16)や『散歩する侵略者』(17)の時のスクリーンプロセスとはまた、与える作用がちょっと違いました。
「そうですね。ただし『クリーピー』も『散歩する侵略者』も“もう大丈夫だろう”ってところでその手法を使いました。冒頭から『映画だから』と、はしゃいで何度も失敗している経験がありますので(笑)。案外、慎重派なんです…いや、課題を一切放棄してもいいんですよ。映画的な飛躍を捨象し、現実のなかだけで語りきり、正々堂々と振る舞えるのならばいい。でも僕にはそんなふうに居直れるだけの度胸がなく、映画なんだからやっぱり特別になにかをやらなくては、と考えてしまうんです」
――終盤の銃撃戦もあからさまな映画的趣向ですよね。そこで、濃厚な時空間を作り出していこう、という。
「銃撃戦は昔からのささやかな欲望としてありましたし、今回のプロットにおいては、映画ならではの愉しみを保証するシークエンスだと確信して、比較的時間とお金を費やしてやりました。どんなふうに銃を撃ち、人がどう被弾して倒れるか、といったディテールは念入りにこだわりましたね。元々、日常的には暴力と無縁な者同士が、最終的には“殺し、殺される”極限の関係に陥ってしまうアクション劇をやりたい、というのが本作の企画の端緒でした。かっこ悪くてドタバタとした、見ようによっては間抜けで滑稽な殺し合いなんですが、当人たちにとっては必死な戦いで、手慣れてないので捨て身にならざるを得ない…そういうアクション劇を展開させたかったんですよね」
――今年、先行して公開された、フランスリメイク版の『蛇の道』(24)に登場するロボット掃除機みたいに動き出したら止まらない、自動機械的な暴力世界みたいな?
「はい。それもまた、映画というフィクションの醍醐味の一つだと捉えています。物事がある段階で止まってもいいはずなのに、バタバタといろんなことが起こりだし、もう止まらない、止められない理不尽さと言いますか。でもさすがに、社会情勢とも被る部分もあり、『戦争ってこういう状況なのかも』という考えがよぎって、撮影現場で俳優さんたちには『ここは戦場だと思ってください』と伝えました。なぜ殺すのか、なぜ殺されるのかっていう疑問は互いに問わない。ひたすら“殺すか殺されるか”の関係ですよ、と」