黒沢清監督が語る、“源流・原点”と蓮實重彦の映画理論「顔のクローズアップで奪われるものもある」【『Cloud クラウド』公開記念インタビュー特集】
「僕自身にも天邪鬼な面があり、『本当にそうか?』という気持ちが湧いてくる」
――以前、『ドッペルゲンガー』(03)の時、初めて黒沢監督への取材の機会を得たのですが、出演者で対談相手だった永作博美さんがナンセンスな作風に「クリアな数式なのに解答をボヤかして、人を煙に巻くような映画」と感想を述べられ、膝を打ったんです。翻って『Cloud クラウド』も監督らしいナンセンス風味が漂っている気がするのですが。
「僕は映画で人を笑わそうって気は、ほとんどないんですよ。Vシネ、オリジナルビデオの『勝手にしやがれ』シリーズなんかは若干そっち方面に傾いたことがありまして。フィルムで撮り、劇場公開もされたのですが、ほぼ誰も笑わず、あれは本当にツラかった(笑)。ただ、笑わせようと思ってはいなくても、場合によってはなにか妙な可笑しさを醸し出すことはあるかもしれない。意図してなかったのに、現場で役者さんによって、動きの奇矯さやセリフの暗喩が粒立ったりして。ナンセンスさは、どうも僕自身にも天邪鬼な面があり、描いている物語に対して『本当にそうか?』という気持ちが湧いてきたりするんですね。リアリティを積み上げていく一方で、いやいや、とブレーキを踏んでしまう自分がいる。恐怖描写も然りで、別のベクトルや真逆のニュアンスのシーンやセリフを入れてしまうことがあります」
――菅田さんが「こんなに笑った映画はない」とコメントされているので、きっとツボだったのでしょう。
「繰り返しますが、決して笑ってもらうために作ってはいないんですけど、登場人物たちがあそこまで、滑稽なまでに殺し合いを演じますからねえ。主人公の転売屋、吉井は犯罪すれすれ、ギリギリのところでなんとか生き延びようとしている。根は真面目な人間ってことなんですけど、観客が一緒に共感できるような男ではありません。そういえば近年、ヒーロー、ヒロインとしての犯罪者ってほとんど見なくなりましたよね。菅田さんには今回、アラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』を参考に見てもらったのですが、『あんなにまじめにコツコツと、懸命に悪事を働く主人公像は初めて見ました』と述べられていましたよ。社会的な貧困や差別が公然とあった時代のストーリーラインで、僕は映画がかつてからよく描いていたキャラクターの印象を持っていましたが、新鮮だったんだなあって」
――ちなみに、「勝手にしやがれ!!」シリーズの主演、黒沢組の哀川翔さんご本人から、『太陽がいっぱい』は大好きと伺ったことがあります。
「そうですか。哀川さん、僕と同様、はみ出し者が“映画の華”であった世代なんですね」
「無意識に奔放な女性の役には、“アキコ”と付けがちかもしれません」
――黒沢映画の主人公や主要人物に、若者が選ばれるケースが増えていますけど、その理由は?
「やっぱり映画の主人公って“若くありたい”んですね。社会からの風当たりは強いし、彼なり彼女なりにこの先どうしていくんだろうという気配をまとっていて目が離せない。良し悪しを含めて、観客の心を一瞬で掴んでしまう。かたや中年なり、初老の人物が意外なことをやってしまうというのもまた目を引くわけで。僕の年齢からしたらそっちこそを追求すべきなのでしょうけど、若い主人公の映画も捨てがたいんですね。おそらく『回路』や『アカルイミライ』あたりが分岐点だったのかと。ちょうどその辺りで自分がもはや、若くはない中年となり、キリのいい2000年以降、増えていった。とは言いながら天邪鬼的に、僕自身の年齢と撮る映画はなんの関係もないはずだという気持ちもあり、両方の見解を行ったり来たりしている感じですかね」
――なるほど。細かいことですが吉井の恋人、扮する古川琴音さんの役名は「秋子」でした。監督の作品に登場する女性によくこの名前を付けるのは、面倒くさいからだとよく説明していますが、厳密には分けることはできませんけれど奔放なキャラが多いのかなあと勝手に想像しています。
「いや、そうかもしれません。本当に名前は適当に決めているんですけど、無意識に奔放な女性の役には、確かに付けがちかもしれません」
――漢字は違いますが「明子」は長編劇場デビュー作『神田川淫乱戦争』(83)で麻生うさぎさんに。「秋子」は『ドレミファ娘の血が騒ぐ』(85)の洞口依子さん。彼女が劇中、唐突に「くるっと回る練習」をするシーンが大好きなんですけど(笑)。
「なぜ、あんなことを洞口さんにさせたのか自分でもよくわからない…そこまで古い作品には責任を持たないようにしています(笑)。考えればまあ、ジャン=リュック・ゴダールの映画で、アンナ・カリーナかアンヌ・ヴィアゼムスキーが近い動きをしたシーンがあったような」
――初めて『ドレミファ娘の血が騒ぐ』を見たのが公開前、蓮實重彦さんが対談のゲストで、黒沢監督自ら、鈴木清順監督の『河内カルメン』(66)を選び、2本立てで上映した記憶があるんです。1985年、場所は池袋の“スタジオ200”でしたか。
「朧げに覚えています。『河内カルメン』は好きでしたからね。あれも主演の野川由美子さんが奔放な女性の役でした」
「これだけ経験を積んできていても、毎回“一か八か”なんです」
――蓮實さんと言えば、批評家として数々の卓見があり、「映画は、向かい合う2人が交わす視線は撮れない」もそうで、すなわち、画面に具体的に映っているものが論じられる。しかし、蓮實理論から排除される「心理」や「内面」も映画監督は否が応でも扱ってしまうものです。
「蓮實さんのレトリックは、なかなかトリッキーなんですよね。僕も実際には登場人物の内面らしきものを描いているだろうし、少なくとも通常の劇映画では脚本があり俳優さんがいて、読んで演じる時点である種の心理描写は醸成されるでしょう。蓮實さんの言わんとしていることを僕なりに解釈しますと、登場人物の心理状態を説明するためのみに機能するショットというのはよろしくない、と。つまり、アルフレッド・ヒッチコックの映画を観てもそうなんですが、物語を追ううちに当然、人物の心理は付随して読み取れ、だがさらに映画ならではの運動性によってこそ観客は大きく心打たれる、のだと。ここで難しいのは“どこから撮るか”なんです。顔のクローズアップを撮れば心理状態はよく伝わる。けれども、カメラ位置を結構引いても伝わったりする。じゃあ、人物が後ろを向いたらどうだろうと試してみる。一見伝わりづらくなるんですが、しかしこれ、本当に不思議なことで、俳優の力もある、映像の力もある、そして映画全体の構造も関わってきて、かなり引いた画で後ろを向いていても効果的に心理状態以上のものが伝わってくるんです。そこを見極めるのは至極の技なのですが映画作りのおもしろさでもありますね。顔のクローズアップにして奪われてしまうものもある。それ以外はなにも伝わらなくなるので」
――そうした、試行錯誤の冒険を全ショットでされているんですね。
「果たして冒険なのか…でも冒険と言えば冒険ですね。これだけ経験を積んできていても毎回“一か八か”なんですよ。判断するのは観客の皆さんで、『伝わっているよね? これ』『多分、伝わっているはず』なんて、作った僕らは確証を持てないままでいるんですから(笑)」
取材・文/轟夕起夫