大林宣彦が『花筐/HANAGATAMI』に注いだ、語りつくせぬ“映画”と“平和”への情熱
『転校生』(82)、『時をかける少女』(83)など、日本映画界に燦然と輝く名作を生み出してきた大林宣彦監督の渾身の一作『花筐/HANAGATAMI』(12月16日公開)。本作の記者会見が1日、東京・有楽町の外国特派員協会で行われ、大林宣彦監督と大林恭子エグゼクティブプロデューサーが登壇。国内外の記者からの質問に答えた。
檀一雄の純文学を原作にした本作は、大林の長編映画デビュー作となった『HOUSE/ハウス』(77)以前に書かれた幻の脚本を映画化した、珠玉の青春ドラマ。1941年、太平洋戦争勃発前夜の佐賀県・唐津市を舞台に、アポロ神のような鵜飼、虚無僧のような吉良ら学友に影響されながら自由で勇気にあふれた日常を送る俊彦。肺病を患う従妹・美那に淡い恋心を抱く彼を軸にし、戦争の渦に飲み込まれていく若者たちの姿を活写していく。
『この空の花〜長岡花火物語〜』(11)と『野のなななのか』(14)に続く“戦争3部作”の最終章に当たる本作。昨年8月のクランクイン直前に、余命残りわずかと宣告を受けた大林だったが、作品にかけた強い精神力で見事に撮り上げた。
現在の日本映画界ではもう数えるほどしかいなくなってしまった、戦争を経験した世代の大林が、現代に伝えていきたいメッセージが、この質疑応答では余すところなく表明された。なので、できる限り多くの言葉を掲載しておきたい。まず最初に挙がった質問は「戦争を経験した最後の世代である監督が、なぜ幻想的なスタイルを貫くのか?」というものだった。
大林はこう語る。「僕はリアルに戦争を再現しても、戦争の実際の映像には、映画は勝つことはできないと思っています。私の妻でありプロデューサーである恭子が私の映画を編集する横にいて、例えば焼夷弾の落下のシーンを見て、画面いっぱいの飛行機と焼夷弾の映像に『こんなもんじゃないわよ。まだ5倍も10倍もたくさんいたわよ』って言います」
「どんなにCGが発達しても戦争はリアルに表現できないと思っています。むしろ私は劇映画の作家ですから、むしろ虚構というものに力を使おうと思っています。虚構であるからには、嘘ですね。この世の中で一番嘘ってなんでしょう。“平和”です。みんなが願っていながら、未だに実現していない。平和というのは」
「しかし、その嘘を人が信じれば、実現できるかもしれない。というのが、私たちが映画に託す“希望”です。せっかく映画を作るわけですから、やっぱり希望を託したい。まず映像はとても嘘のように美しく、嘘のような演技と嘘のような編集と嘘のような演出によって描ききり、どなたかが感動してくだされば、いつかその嘘、つまり平和が、誠になるのではないかと。私は反戦映画を作っているのではなくて、戦争が嫌いなだけです」と、しっかりとした言葉で語った大林。
続いて、本作の脚本が1975年と2017年の2パターンがある点について訊ねられた大林。「黒澤明監督がいつも言っていましたが『今作りたい映画は30本くらい頭に詰まっている。しかしそのどれを作るかは、自分ではわからない。なんか上の方にいる人が、黒澤明よ、今これを作りなさいと言われたものを僕は作るんですよ』と、いつも話していましたが、これは彼が優秀なジャーナリストであるからだと僕は思っています」と、大先輩の名前を例に挙げた。
そして「どんな大事なことを言っても、周りにいる人が聞く耳を持ってないと、それは伝わらない。伝わらなければ対話にならないから、表現をしても意味がない。つまり表現を作るのは対話のための素材であると思っています」と続けた。
その上で、本作の脚本について「日本が戦争中で、戦争が嫌だとか平和がいいなどと言ったら国家犯罪人になる、一番自分が表現したいことを表現できない時代です。当時の三島由紀夫という青年だった人が、後に『僕たち若者にこの戦争の最中できることは誰かを命がけで愛することと、不良になることだけだ』と言っています」
「そういう意味で、この小説は命がけで少女を愛することと、本来ならば裸で抱きあえるような親友同士が殺し合う真似をする。不良になる。酒を飲む、タバコを吸う。そういうことでしか表現できなかった、我々の先行世代の、断念と覚悟。その切羽詰まった思いで書かれた小説を、当時は映画にする自信がありませんでした。聞く人がいなかったからです」と明かす。
「しかし40年経ち、時代が変わりました。戦争を知らない若い人たちが戦争の気配を感じるようになりました。時代の空気が、不幸で、危険で、危ない時代になってきました。今こそ、上の方にいる人が『大林よ、この映画を作れ』と言われてるんだなと。なので、40年ぶりにこの映画を制作しました。したがって、シナリオは全く違います。時代のジャーナリズムを持って、しっかりと書き直しました。それがこの映画の正体です」
つづいて、大林と同じ1938年生まれの記者から、作品の上映時間の長さについて言及される。「ではお答えしましょう」と切り出した大林は、少し考えてから「みなさんにお伝えしなければならないのは、僕は子供の頃、我が家の蔵の中で映写機のおもちゃを見つけました。それがとても楽しいので、自分でプラモデルを組み立てるように映画を組み立てて遊んでいたんです」と、映画との出会いを語り始めた。
「いわゆるプロフェッショナルの企業に入らずに、妻がプロデューサーで私が監督で、いわばアマチュアの映画を撮り続けて来たわけです。アマチュアはプロとどう違うかというと、自由があるということです。そして自分が信じることだけを映画にすることができるということです」
「さらにいえば、映画もまたビジネスという制度の中にあるから、とても不自由なのです。黒澤さんが『東京物語』を作るわけにもいかない、小津さんが『生きる』を作るわけにもいかない。私はその両方をやることができる。そういうフリーランスといえばカッコいいですが、単なる失業者ということですからね」と、自身の映画人生を振り返った大林。
そして「映画が長いとおっしゃいましたが、何を基準として長いと言っていらっしゃるんでしょうかね。私はむしろ、エジソンが発明してくれた映画を、自分で撮るときは、1秒の映画があってもいい、100秒の映画があってもいい。一生かけても観られない映画があってもいい。そういういろんな可能性を試してみたい。映画というのは科学技術が生んだ芸術ですから、表現はすべて発明だらけ。過去にあったものではなく、誰も見たことがないものを提示することが発明。私自身の自由なフィロソフィで自由に表現させていただいている」と熱弁した。
最後には本作の舞台に、何故唐津が選ばれたのか、と質問が投げかけられた。大林は「例えば、黒澤さんは東宝の社会劇を、小津さんは松竹の家庭劇を、溝口さんは大映の歴史劇や時代劇を演出する。それぞれの会社のブランドの映画を作っていました。でも私は初めて日本で、どこの会社にも属さない人間としてやっていたわけです。そこで自分なりに“ふるさと映画”というものを作ろうと思いました」と、これまでも「尾道三部作」など、地域の特色を活かしてきた彼のフィルモグラフィの根底にあるものを語り始めた大林。
「それは私自身が戦争中の子供で、親しい兄貴や親父たちが命がけで守ってくれた緑の山河、それを日本人が、敗戦後の復興のために自ら壊しはじめていった。その中で、私は“ふるさと映画”を撮ると決めました。日本の、いろんな場所に宿っている、日本人の古い暮らしの文化の賢さというものを掘り出して、映画にしようと心に決めました」と明かす。
そして唐津との出会いは、檀一雄からの言葉にあったことを語る大林。「40年前にお会いして、どこにロケをすればこの映画を撮れるでしょうかと訊いてみたら、不意に真面目な顔で『唐津に行ってごらんなさい』と。それが彼の遺言になりました。そしてすぐに、息子の檀太郎くんと行きましたら、なるほど何処を見ても、この映画にあったような唐津はまったくないんです。実は本作、すべて唐津で撮影された映像ですが、実際に唐津に行っても、こういう場所はどこにもないんです」
「つまり40年かけまして、ようやく『唐津に行ってみろ』と仰ったのは、唐津の風景ではなく、唐津の精神にあったとわかったのです。何故わかったかというと、私のパートナーである大林恭子が“唐津くんち”というお祭りを見たときに、原作にはないけれど、これを撮れば檀さんの“唐津の精神”が撮れるのだと、言ってくれたことが、唐津でこの映画を撮ろうと決意をさせた大きな動機です」そう言って大林は「唐津のどこに、檀さんの精神が見えたのか」と、突然話を恭子プロデューサーに振った。
すると恭子プロデューサーは「いつも急に振ってくるんですよ」と困りながらも「唐津のくんちは、目の前をカラフルな山が通っていくんですね。それを見たときに、私は理論派ではなく感性の人間ですから、何となく『花筐』は唐津が似合うかな、と。唐津の魂、曳山の魂、くんちの魂に惹かれました」と明かした。
大林は「彼女の勘ですからね。本当にパートナーとしてありがたいことで、いつも一言、ズバリと本質を言い当ててくれる」と長年連れ添ってきた妻との、仲の良さが窺えるコメントも披露した。
さらに唐津くんちについて「地味な、観光行政的なにおいがまったくない、今の日本では珍しい、暮らしの中の祭りなんです。しかも唐津の町は今でもきっちり城内・城外というものが区分けされていて、つまりお侍の町と、庶民の町とがはっきりと分かれている」
「おくんちは町民の祭りでして、代々その家の人が曳くという。だから戦争中には曳き手ががいなくなり、軍隊から逃亡してきたのです。おくんちを曳くのも戦争に行くのも命がけだからと。そういう伝統がある。一方で、それを曳くことができない女子供は、一年がかりで貯金をして、それをすべて使い切って、祭の3日間、我が家を訪ねてくれたお客さんを最高級のご馳走でもてなすという。男にとっても女にとっても命がけのお祭りなんです」
「しかも、唐津というのは朝鮮出兵の時の豊臣秀吉の根城があったところで、権力者だらけの町だった。それに対してその土地に住んでいた人たちが、庶民・町民といった普通の人間の誇りと自由、これを守るためにこの祭りをやった」と、その土地の歴史と真剣に向き合った大林だからこそ語ることができるエピソードが展開された。
そして最後に「18歳のときに、檀一雄さんはこの街で放浪したそうです。この町でいろいろあって、話を聞いたりしたことで『花筐』という原作ができ、24歳のときに出版して、発売された。ということまで辿り着いたことで、檀さんと私たちが結びついたのです。『花筐』を観て、何かずっしりと胸にきたものはここに一点、誰に会っても、何を食べても感じられます」と笑顔でまとめ上げた。
取材・文/久保田和馬