北大路欣也
空海
弘法大師空海の生いたちから入定までの六十一年の生涯を描く。脚本は空海にまつわる膨大な資料をもとに「青春の門 自立篇(1977)」の早坂暁が執筆。監督は「未完の対局」の佐藤純彌、撮影は「日本海大海戦 海ゆかば」の飯村雅彦がそれぞれ担当。
伊豫親王に仕える叔父・阿刀大足を頼り大学をめざし奈良の都に出て来ていた佐伯の真魚が突然、姿を消したのは桓武帝による遷都騒ぎのさ中だった。六年後、乞食坊主の姿で故郷の讃岐に現われた彼は、家族の止める間もなく、再び命がけの修業の旅へと向かった。延暦二十一年一月、富士山が大爆発を起こした。近くで修業中だった真魚は、恐怖で逃げまどう村人たちを鍾乳洞に避難させる。同じ頃、京の東宮御所では藤原縄主の妻・薬子が、娘婿にあたる安殿親王と密会を重ねていた。延暦二十三年、桓武帝の命により第十六次遣唐船の派遣が決定。密教の存在を知りその教典を持ち帰ろうとした真魚は、大足と伊豫親王の尽力で遣唐留学生として参加を許された。そして、これを機に名を空海と改める。遣唐使の中には以後空海の生涯のライバルとなる最澄も特別待遇で加わっていた。九州を船出した翌日、大嵐に会い、空海らが乗った船は難破船となるが、三十四日目に福州の海岸に漂着。難行苦行ののち、長安にたどり着いた空海たちは最澄の乗った船も無事で、彼は天台山へ向かったことを知らされた。西明寺に落ち着いた空海は三十四年もこの地にとどまっている永忠に会い、密教の頂点に立つのは恵果阿闍梨だと教えられる。密教の原語である梵語を三ヵ月できわめようと、空海は狂ったように励む。平安京では何百巻の経典をたずさえ帰国した最澄を、桓武帝が迎えていた。最澄を国師に任じた帝は奈良の長老たちを膝下に従えるという念願を叶えた。一方、恵果の死期の間近いことを知った空海は長安青竜寺に彼を訪ね、最後の弟子として密教の潅頂を授けられる。それから三ヵ月、殆ど不眠不休の中、二十年はかかろうかという密教のすべての伝授が行なわれた。日本を離れて二年、帰国した空海は桓武帝の逝去と安殿親王が平城天皇となられ、薬子が帝のお傍に居ることを知った。空海の持ち帰った教典、その他の目録が帝の元に届けられると、伊豫親王や最澄がその価値を強く推奨したためお科め無しとなる。薬子の陰謀によって、伊豫親王が自害して果てるという事件が起きた。疲れ切った平城帝は、弟の神野親王に帝を譲り嵯峨天皇の御代となる。だが、奈良に移った平城帝の独断専行はやまず、空海は国家鎮護の祈祷を行ない、軍団に取り囲まれたために上皇は出家、薬子は自害した。弘仁三年、最澄は空海に密教の授受を願い潅頂を受けたが、密教の最後の潅頂である伝法潅頂に至る前に、高弟の泰範を残し叡山へと去った。後に密教の解釈をめぐり最澄は空海と対立。泰範は空海のもとに残り高弟の一人となる。弟子を伴れて旅に出た空海は疫病にあえぐ人々を救ったり、水害で悩む故郷の満濃池の築堤事業に力を貸したりして身をもってその教えを広めて行く。京に戻った空海は嵯峨帝に国家安寧のための教えを与えると同時に、高野山に寺院を建立する計画に着手。そんな彼のもとに最澄逝去の知らせが届けられた。承和二年三月二十一日、万灯万華会の中、凄絶な断食ののち「秘密曼茶羅十住心論」を授けた高弟たちに見守られ、空海は天へと向かう旅へと立った。
空海
最澄
薬子
佐伯田公
玉寄
真魚
真魚の兄
橘逸勢
藤原葛野磨
石川道益
菅原清公
高階遠成
藤原縄主
式子
藤原仲成
平城天皇
嵯峨天皇
伊豫親王
真如
泰範
智泉
実恵
勤操
徳一
永忠
悦々
房女
桓武天皇
阿刀大足
監督
脚本
原案協力、プロデューサー
原案協力、プロデューサー
原案協力、プロデューサー
原案協力、プロデューサー
製作
製作
撮影
音楽
美術
美術
美術
編集
照明
録音
特撮監督
助監督
助監督
助監督
企画
スチール
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