菅原文太
〈広能組〉広能昌三
“仁義なき戦い”シリーズ第四作目。昭和38年春から39年へかけて、敵対する二つの広域暴力団の代理戦争とも言うべき広島抗争を、リアリズム・タッチで描く。原作は飯干晃一の「仁義なき戦い」、脚本は「仁義なき戦い 代理戦争」の笠原和夫、監督も同作の深作欣二、撮影も同作の吉田貞次がそれぞれ担当。
昭和38年春/西日本広域暴力団明石組と、ライバル神和会との代理戦争とも言うべき広島抗争は、激化する一方だった。明石組系の打本組(広島)と広能組(呉)、神和会系の山守組(広島)の双方は、はっきりと対立の様相を呈していた。同年5月相次ぐ暴力事件への市民の批判と相まって、警察は暴力団撲滅運動に乗り出し“頂上作戦”を敷いた。その頃、呉市では広能組が、山守組傘下の槙原組と対立していた。広能と打本は、広島の義西会・岡島友次に応援を依頼し、ひたすら中立を守る岡島を、明石組の岩井も説得する。やがて、広能組の若衆河西が、槙原組の的場に射殺されたことから、広能と山守の対立は正に一触即発となった。一方、広島では、打本組々員三上が、誤って打本の堅気の客を殺害したことから、一般市民、マスコミの反撥が燃えあがり、警察も暴力取締り強化に本腰を入れはじめた。その頃、山守組系の早川組若衆仲本が、女をめぐって打本組の福田を襲撃、惨殺した。同年6月19日/山守組傘下の江田組々員が、打本組の若衆に凄絶なリンチを加え、一人を死に至らしめた。だが、打本は、その弱腰から報復に打って出なかった。広能は、岩井の発案で、殺された組員河西の葬式を行なうという名目で、全国各地から応援千六百人を集め、一気に山守組に攻め込もうとした。同年7月4日/打本が、山守系の武田組に位致され、山守に脅迫されたために、広能の計画を吐いてしまった。山守は早速、警察に密告する。同年7月5日/広能は別件容疑で逮捕され、明石組とその応援組員は呉から退去。ここに形勢は逆転し山守、福原が呉を支配するようになった。以後も、広熊組と槙原組との間に、血の応酬が相次いだ。同年8月下旬/岡島友次は、愚連隊川田組々長を金で買収し、山守勢と対決すべく決心をした。同年9月8日/岡島の動向をキャッチした山守は、組員吉井に、岡島を射殺させた。同年9月12日/打本組の谷口等が山守組のアジトに、義西会の藤田等が江田組事務所に、それぞれ爆弾を投げ込んだ。同年9月21日/命を狙われ憔悴した山守は、早川組のバーに身を隠していたが、そこにも打本組々員が殴り込み、山守はからくも逃亡した。いきり立つ打本組若衆たちは、山守・江田両組の組員たちと凄絶な市街戦を行ない、市民を恐怖のどん底に陥入れた。暴力団追放の世論が沸騰し、警察と検察当局は、ついに幹部組長一斉検挙に踏み切った。やがて、山守は逮捕された。一方、岩井は、広島に乗り込んで義西会を中心に陣営の再建に着手し始めるが、武田は、暴力団を糾合して、岩井の挑戦を真向から受けて立った。同年9月24日/明石組事務所を、武田組組員が爆破。明石組は、これを神和会の仕業と誤解して即座に報復したために、武田組と岩井組の間で、激烈な銃撃戦の火ブタが切って落された。かくして、広島抗争事件は、西日本をゆるがす大流血事件と発展してしまった……。死者17名、負傷者20余人を出した実りなき抗争。広能は、ひとり獄舎で深い虚しさを噛みしめていた……。
〈広能組〉広能昌三
〈広能組〉河西実
〈広能組〉竹本繁
〈広能組〉岩見益夫
〈打本組〉打本昇
〈打本組〉森田勉
〈打本組〉福田泰樹
〈打本組〉三上達夫
〈打本組〉谷口寛
〈川田組〉川田英光
〈川田組〉野崎弘
〈山守組〉山守義雄
〈山守組〉山守利香
〈山守組〉吉井信介
〈槙原組〉槙原政吉
〈槙原組〉森久宏
〈槙原組〉的場保
〈武田組〉武田明
〈武田組〉織田英士
〈江田組〉江田省一
〈江田組〉山本邦明
〈明石組〉岩井信一
〈明石組〉相原
〈明石組〉和田作次
〈早川細〉早川英雄
〈早川細〉杉本博
〈早川細〉楠田時夫
〈義西会〉岡島友次
〈義西会〉藤田正一
大久保憲一
上田利男
神代己之吉
石神健次郎
吉川
吉川の妻
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