勝新太郎
坂田三吉
明治四十年から大正八年にかけて一介の雪駄作りの職人から裸一貫で身をおこし、後に日本の将棋界を東西に二分し、名人位の覇を競い、人をして関西に王将ありといわしめた将棋の鬼、坂田三吉の波乱にとんだ半生を描く。北条秀司の同名小説の映画化。脚本は「紙芝居昭和史 黄金バットがやって来る」の笠原良三、監督は「激動の昭和史 軍閥」の堀川弘通、撮影は「恋の夏」の逢沢譲がそれぞれ担当。
明治四十年、大阪天王寺、通夫閣を真近に見た棟割長屋に、無学非識字者だが将棋だけが滅法強い雪駄職人、坂田三吉が女房・小春と娘・玉江と住んでいた。三吉は毎日、稼業をそっちのけで将棋に熱中し、小春の苦労は年中絶えることがなかった。ある日、三吉のところに、関西将棋同好会主催の全大阪将棋大会の参加通知が来た。喜んだ三吉は、同じ長屋の住人で屋台のうどん屋・新吉から葬式用の紋付羽織を強引に借り、飛ぶようにして会場へ駆けつけた。連戦連勝した三吉は決勝で、当時若手棋士の第一人者である関根金次郎七段と相対した。関根は三吉が初めて出会った強敵で、三吉の苦戦はまぬがれなかった。やがて、三吉は苦心のすえ打った“千日手”によって破れてしまった。“千日手”とは職業棋士の規則では同じ差し手を三度繰り返すと負けてしまうというのである。玄人の規則をもち出して来た主催者側に対する三吉の怒りは、関根に対する復讐心となって燃えあがった。三吉が本職の将棋差しになろうと決意したのはこの時だった。そんな三吉を待ちうけていたのは、小春が借金を苦に母娘心中未遂を起した事件だった。三吉の心は傷んだ。将棋を捨てようとまで決心した。しかし、それを止めたのは小春だった。一度、死を乗り越えた小春は、三吉の将棋への執念をくみとり本職の将棋差しになることを許した。まもなく三吉は、小林東伯斎の許に入門、職業棋士としての第一歩を踏み出すことになった。ところが、三吉はその頃から目を患っており、女房の小春の奔走で、将棋愛好家で名医の菊岡博士によって手術をしてもらった。大正三年。今では眼も全快し、三吉は着々と棋士としての腕を上げ、生活も安定した。そして、念願の当時八段に昇段していた関根との対局にも関根が「香」「角」「香」落ちの三番勝負ではあったが打ち破った。対局後三吉は次の機会には対等な「平手戦」を関根に約束した。大正八年。三吉は名人位に次ぐ最高位八段に昇格しており、弟子も持つようになっていた。そて十三年間、三吉が待ちに待った関根との対等な「平手戦」が、行われることになった。第一戦では三吉の先手で関根を破った。その頃、小春の危篤の報が三吉に同行していた玉江のところに来た。玉江は三吉に隠して、ひとり大阪へ帰った。さて後手の第二戦で三吉は、不利の状態に追いこまれていった。思案にくれた三吉は、関根も驚く程の妙手“銀”を関根に攻めこまれた自陣の真中に打ち込んだ。“銀が泣いている!”その駒は真っ二つに割れた。以後、形勢が逆転。遂に三吉は「平手戦」で関根を打ち破ったのだった。その頃、大阪では、あたかもそれを待っていたかのように小春が息をひきとっていた……。いまは亡き女房・小春に、勝利を報告する三吉の眼に、はじめて大粒の涙がしたたり落ちた……。
坂田三吉
坂田小春
坂田玉江
坂田玉江子供時代
関根八段
うどん屋・新吉
米仲買・高浜
菊岡博士
高利貸・小島
番頭・田宮
小林東伯斎
小泉
お兼
お時
小倉
篠原
山田
宮松三段
柳沢伯爵
町田
医師
京都旅館の女中
新聞記者
金ぶち眼鏡の男
郵便配達夫
ナレーター
監督
脚本
原作
製作
製作
撮影
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美術
編集
照明
録音
助監督
スチル
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