鶴田浩二
大西滝治郎
かつて如何なる戦史にも類をみない“特攻戦術”の生みの親、大西滝治郎中将の生涯と、命令に服し散っていった特攻隊の全貌を描く。原作は草柳大蔵の『特攻の思想』。脚本は「仁義なき戦い 頂上作戦」の笠原和夫と「唐獅子警察」の野上龍雄、監督は「山口組外伝 九州進攻作戦」の山下耕作、特撮監督は本田達男、撮影は「激突!殺人拳」の塚越堅二がそれぞれ担当。
太平洋戦争開幕以来、進撃を続けた日本軍ではあったが、その成功もわずか半年たらずで停滞し、昭和十九年六月、マリアナ群島の拠点、サイパン島攻防戦の火蓋がきられた。その頃、大西滝治郎中将は、海軍軍需省局長として、物資調達に奔走していた。児玉誉士夫機関長は、大西の合理的な判断と奔放な行動力に心服していた。やがて七月、サイパンは陥落。米内海相は、大西を第一航艦司令長官に任命した。サイパン陥落を境に、日本の敗勢はおおうべくもなく、東条内閣から小磯内閣へと変ったが、国難打開の責任は参謀本部の双肩にかかっていた。七月十五日、参謀本部は最後の決戦案を立案し、フィリッピン方面における戦闘を捷一号作戦と名づけた。十月、クラーク基地に姿を現わした大西は、猪口参謀、玉井中佐を呼び、特攻の編成を命じた。今まで、特攻作戦の進言に逡巡し、残り三十機の飛行機で正規の戦術で闘おうと努力した大西だったが、捷一号作戦を前に、敢て火中の栗を自らの手で掴む苦悩の決断であった。かくして、関行男大尉を指揮官とする神風特別攻撃隊が編成され、戦史にその例を見ない必死必殺の特攻作戦が生まれたのである。だが、この捷一号作戦もまた失敗に終った。戦局は益々苛烈なる退勢をたどり、硫黄島の全滅、沖縄の激戦と日本は追いつめられ、本土決戦は時間の問題となっていた。そして、特攻作戦は今や大本営作戦として命令され、連日、全基地から特攻隊が出撃していった。時和二十年五月、大西は軍令部次長として帰国した。本土空襲によって焼けた我が家で妻、淑恵と再会した大西だが、家庭を暖める暇はなく、児玉機関と協力して飛行機材料の入手に努める一方、和平論に傾いてきた軍令部、米内海相に徹底抗戦を説得しつづけた。だが、大西、小園らの動きにもかかわらず最高戦争指導会議では、ソ連を仲介とした和平に期待していた。だが八月、突如ソ連は対日宣戦を布告、満州に侵入、アメリカは広島、長崎に原爆を投下、日本はポツダム宣言を受諾するか、どうかの岐路に立たされた。大西は必死だった。豊田連合艦隊司令長官をくどき、米内海相にぶつかり、主戦論を通すべく奔走した。「このまま何もせずに敗戦では軍人として申し訳なし」これが大西の本土徹底抗戦論の原点である。彼の胸中には、彼の命令で出撃し散華していった若い特攻隊員の姿が焼きついていた。和平の動きを察知した小園は、以後独自行動をとる事を宣言、若手士官たちも小園に従い、叛軍を決意した。八月十四日、御前会議で聖断が下り、大西は米内から切々たる説諭を受け、抗戦主張を断念、働哭する。八月十五日、終戦の玉音放送。八月十六日、午前二時。大西滝治郎中将は官舎にて自刃した。かけつけた児玉が、淑恵を迎えにいくが、二人が戻った時には既に大西は息絶えていた。厚木基地に大西の自刃が伝えられた。私淑し、尊敬した大西の死に錯乱する小園。若手士官たちは包囲をくぐり、ゼロ戦で脱出を計った。その一機が、火葬場に向う大西の棺を乗せたトラックの上をバンクして、大西の後を追うかのように、東京湾に自爆していった。
大西滝治郎
米内光政
児玉誉士夫
吉田彦太郎
岡村吾一
猪口力平
玉井浅一
中島正
指宿大尉
横山大尉
関行男
久納好浮
淑恵
易妻
小園安名
菅原秀雄
荒井武夫
貝田義則
中井勝彦
江藤欣一
倉島正治
赤松貞明
島田繁太郎
及川古志郎
豊田副武
寺岡謹平
鈴木貫太郎
阿南惟幾
梅津美治郎
迫水久常
千明康
関根賢
佐田照美
大黒上飛曹
高瀬丁
城英一郎
中村兵曹
畑井一水
佐多大佐
谷岡正俊
岡村義基
門司大尉
手塚中将
分隊長
松田二水
通信長
参謀
監督
脚本
脚本
脚本協力
原作
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製作総指揮
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美術
編集
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特撮監督
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企画
企画
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