テーマとプロットがこれほど噛み合わない映画も珍しい。08年度のイタリア・アカデミー賞10部門で授賞したそうだが、多分この年のイタリア映画は相当に不作だったに違いない。
冒頭で先ず少女の誘拐があり、固唾を呑んで観ていると、それは事件でなく、戻った彼女の話からアンナの死体が発見されるという仕組み。湖辺の広い砂浜に放置されている死体は誰でも発見可能で、これほど無理をする必要はないのに。
早速サンツイオ警部一行がやってきて捜査が始まるのだが、物証は何もなく、警部は状況判断からアンナの恋人を逮捕したり、車椅子の老人やホッケーコーチを厳しく尋問したりドジばかり踏む。それもこれも観客をただ混乱させるだけのプロットで、思い直すと馬鹿にされたような気分になってしまう。
サンツイオにもアンナと同年齢の娘がいるがしっくりいっていない。サンツイオと娘の関係が警部の捜査の心理的判断を支えているらしいと思われるが、思われるだけである。
オフィシャルサイトが、誰もが抱えている“一番身近な人にも言えない悩み”と解説するストーリーの一般化は適切ではない。現に殺人が起きているのだ。ここはアンナを中心にストーリーを組み立て直すべきだ。
美人で活動的で誰からも好かれている高校生のアンナ。しかし再婚の母の連れ娘で、家庭では妹に比べてとかく冷淡にされがちな悲しみを背負っている。ベビーシッターをしている、精神に障害があって両親が持て余しているエンジェルという女児に慕われている。ここには両親の愛情に飢える者同士の結びつきがある。
ある朝、ジョッギングの途中で、彼女はエンジェルが喉にビスケットを詰まらせているのを父親が放置する様子を窓越しに目撃し、匿名で通報するが、間に合わない。死は悲しみを永遠に解決すると、多分彼女は考える。
アンナは脳に悪性腫瘍が発見され、余命1年と診断されている。彼女はそのことを誰にも告げず、ただエンジェルの父親には、多分エンジェル殺しを警察に告げると脅かして、殺される-実は自殺幇助をして貰う、と言うことが最後に判るストーリーだ。
サンツイオがどうにか刑事らしい働きをしなかったら、犯人は挙がらず、誰にも心配かけずにひっそりと死んで行きたいと思うアンナの願いは成就したのだろう。このストーリーには清冽な審美主義がある。だがこれまでのプロットがそうはさせない。
アンナが処女だったことがことさらに語られる。これはピューリタンの美徳である。一方アンナは自殺出来ないことが示唆される。これはカトリックの美徳である。ノルウエイ作家による原作をイタリアに持ち込んできたことで、宗教のすりあわせが必要になったと考えられるが、このことも知らないと、アンナが殺された本当の意味が解らない。
「考え落ち」という言葉があるが、ここまで判るのは劇場から出てからだ。観ている時はただ混乱しているだけ。これは観客の私が鈍いのではなく、映画の作りが独りよがりで鈍いのだ。