西村正秀
チケン
山に囲まれた地域に浸透する言い伝えに呪縛される寺の息子が友 情や愛情による思いこみと共に自意識過剰にり、果てには他者によって打ち崩され る様を描く。
とある地方の片田舎。そのまた小さな、"集落"という呼び名が未だ通用しそうなその土地に、錆の浮いた赤い屋根の寺があった。この集落を檀家とする寺「紅雲院」の跡取りである主人公が自ら犯してしまった傷害事件の刑期を終え、出所する所から物語りは始まる。数年の時を経て目にする、住み続けていた者には気付けない小さな変化は、主人公にとって、もはや取り返しのつかない程大きなものに思えた。それを象徴するかの様に、紅雲院の赤い屋根の改修工事が進んでゆく…。集落には寺の赤い屋根に纏わる一つの伝説があった。湧き水が多く湿った土地には蛇が多く住み、霧が濃かった。今では生活廃水が流れ落ち、姿を変え、忘れ去られようとしている滝。その昔、霧深い夜明けに蛇たちがその滝壺に集まって大蛇となり、滝を天に向かって遡り、天と滝壺の間に位置する紅雲院の屋根で体を赤く染めて龍になる、という龍神伝説。そもそもの発端は何だ?自らが犯した事件に纏わる、小さな湿った土地の呪縛、情。主人公はそれに抗おうとし、しかし、魅入られてもゆく。周辺の暴れ者達を束ねていた主人公のもとには、その姿を変えない者数人だけが再び集まってきた。しかし、逆に主人公の変化に戸惑う彼らの中に、一人だけ疑いすら抱かない幼なじみがいた。幼い日に交わされ、果たされず、破られてしまった約束。チケンとシラス。お互いに姿を変えない者同士に見えた。故に強く惹かれあってゆく。お互いに疑う事などあるはずもないと信じているかのように…。そんな春だというのに夏のような暑い日の夕暮れ、幼馴染みのシラスは小さな"亀裂"を運んでくる…。幼馴染みを助けるべく、果たせなかった約束を果たすべく、チケンはまるで禊ぎをするかのようにその"亀裂"に飛び込んでゆくのだが…。
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