「坂東玉三郎なくしてできなかった」巨匠・篠田正浩が語る、“封印映画”『夜叉ヶ池』復活への42年

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「坂東玉三郎なくしてできなかった」巨匠・篠田正浩が語る、“封印映画”『夜叉ヶ池』復活への42年

昨年で映画製作開始から100周年を迎えた松竹。その記念プロジェクトの締めくくりとして4Kデジタルリマスター版として42年ぶりに蘇った篠田正浩監督の『夜叉ヶ池』(79)が、10日より東京・渋谷のユーロスペースでスタートした「篠田正浩監督生誕90年祭『夜叉ヶ池』への道 モダニズム ポップアート そしてニッポン」で上映。その初日舞台挨拶に、篠田監督と主演の坂東玉三郎が登壇した。

幻想文学の礎を築いた泉鏡花の同名戯曲を原作にした『夜叉ヶ池』。舞台は福井県と岐阜県の県境の辺り。三国嶽のふもとの琴弾谷に、夜叉ヶ池の伝説の調査に訪れた学者の山沢学円は、迷い込んだ池のほとりで美しい女性の百合と出会う。家に招かれた山沢は、彼女の夫がかつての親友であり、夜叉ヶ池の調査に出たまま帰らぬ晃であることを知り驚愕する。一日に三度鐘を撞かなければ、夜叉ヶ池に封じ込められた龍神が暴れて洪水が引き起こされると聞き、この地に落ち着いたという晃。そしてある出来事をきっかけに、平穏な日々が破られることに…。

今年90歳を迎えた篠田正浩監督
今年90歳を迎えた篠田正浩監督

1960年に監督デビューを果たし、大島渚や吉田喜重と共に“松竹ヌーヴェル・ヴァーグ”の旗手として注目を集めた篠田監督。1969年に松竹を退社し独立プロ「表現社」を設立。遠藤周作原作の『沈黙 SILENCE』(71)や記録映画『札幌オリンピック』(72)などを世に送りだし、『鑓の権三』(86)では第36回ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞。2003年に実在のスパイ、リヒャルト・ゾルゲの半生を描いた全編デジタル撮影の大作『スパイ・ゾルゲ』を発表し、監督業から引退した。


1979年に手掛けた本作は劇場公開された後、権利関係の問題でビデオ化やテレビ放映もほとんどされておらず、“封印された映画”として多くの映画ファンから語り継がれてきた作品。しかし昨年、篠田監督と坂東が再会し、「本作を是非いまの人たちにも観てもらいたい」という想いが一致したことから今回のプロジェクトが始動。2人が監修を務めた上で音や映像などのきめ細やかな修復作業を行い、4Kデジタルリマスター版の完成に至ったという。

【写真を見る】公開当時29歳の坂東玉三郎が魅せる、性別を超えた美…『夜叉ケ池』幽玄の世界
【写真を見る】公開当時29歳の坂東玉三郎が魅せる、性別を超えた美…『夜叉ケ池』幽玄の世界[c]1979/2021 松竹株式会社

「去年の2月だったと思います。日付は忘れてしまいましたが、90歳のせいだとお許しください」とユーモアたっぷりにプロジェクト発足の経緯を語り始める篠田監督。「日本でこの映画が上映され、見捨てられたということもあり、これはどうしても観せなきゃいけない映画じゃないかと私は40年間密かに思っておりました。これを作ったのは僕じゃない。坂東玉三郎くんという才能や情熱がなければ、この世界を完成に持っていくだけの力量はなかっただろう。40年前、百合と白雪姫という二役を演じることが可能なのは坂東玉三郎しかこの世にいないと思っていました」と、坂東への敬意をのぞかせる。

そして「蔵の中に仕舞い込まれて跡形もなく消えていく寸前にあったことは、私にとって大きな責任です。玉三郎くんの演技はもちろん、心血注がれた特撮技術に、女形という日本の伝統技術がこの映画で結実したことを、もう一度新しい観客に観てもらいたい。そのために世に出しましょうと協力を申し出たら快く受け入れてくれた。作りあげたら最初に舞台に出て、2人で映画の説明や挨拶、御礼をすることを約束しましたので、今日その約束を全うすることができました。玉三郎さん、ありがとうございます」と深々と頭を下げた。

映画初出演にして二役を演じきった坂東玉三郎
映画初出演にして二役を演じきった坂東玉三郎

一方、本作が映画初出演となった坂東は「監督が“見捨てられた”とおっしゃっておりましたが、僕もその感が強くあります。去年春にお声をかけていただき、やっと7月にお目にかかることができ、そこから作業を始めて1年も経ったと思えないような今日。色々な意味で当時の映画という概念から外れたような作品だったと思えます」と本作への想いを語り、「演者としては、映画はいつも観てみると撮り直したいという思いを抱くもので大変お恥ずかしいのですが、こういう形で皆さまに改めて観ていただけることはこの上ない、本当の意味での喜びです。撮影中の日々もほとんど覚えているくらい印象深いものでした」と感慨深げな表情を浮かべた。

そして撮影中の思い出を訊かれた篠田監督は、池の辺りのシーンで柳の木が動いていないことを坂東から指摘されたことを回想。「やはり玉三郎くんは大舞台を踏んで装置のひとつひとつを自分の踊りの目線で作ってきた人。僕は監督としてまだ下っ端だなと思いました。慚愧に堪えない気持ちでいっぱいだったと同時に、とてもすばらしいパートナーがいて安心しました。完全に『夜叉ヶ池』は玉三郎なくしてできなかったと思い知らされました」と振り返る。それには坂東も「重箱の隅をつつくようなことをして、監督はよく怒らずに堪えてくれたなというのが僕の実感です」と笑っていた。