濱口竜介監督が明かす『ドライブ・マイ・カー』創作の裏側、「村上春樹の長編小説の手法を参考に」
村上春樹の同名短編小説を翻案し、179分の長編映画としてよみがえらせた『ドライブ・マイ・カー』(公開中)は、最新技術や映像技法に頼ることなく映画の可能性を広げる作品だ。脚本家の妻、音(霧島れいか)を失った舞台演出家の家福(西島秀俊)と、彼の愛車の運転手となる、みさき(三浦透子)、そして家福と音のあいだに存在する俳優の高槻(岡田将生)。彼らのうちの3人が生業とするフィクションの物語の再現に、チェーホフの戯曲と旧型の赤い車体の「サーブ900」、無骨な女性運転手が媒介となって、映画の冒頭とまったく異なる到達点に観客を誘う。
この綿密で重層的な脚本と、役者の無意識化の演技を誘発するような演出を世界の映画界が見逃すはずもなく、前作『寝ても覚めても』(18)に続き出品された第74回カンヌ国際映画祭コンペティション部門で、日本作品として初の脚本賞を受賞した。東京藝術大学大学院映像研究科の修了制作『PASSION』(08)以来海外映画祭の常連となっている濱口竜介監督に、脚本執筆や演出について話を訊いた。
「物語の流れの淀みは三段階ぐらいあります」
――カンヌ国際映画祭での脚本賞受賞おめでとうございます。授賞スピーチも、受賞後の記者会見もすごく落ち着いていらっしゃいました。カンヌでは受賞が濃厚になると、映画祭側から授賞式への参加を促されると聞きましたが。
「正確には当日午後にプロデューサーが電話連絡を受けます。『電話、来た!』という感じで、そこから授賞式参加の準備をする感じでした。授賞式に座っている間は『男優賞、女優賞はこれか。で…脚本賞、あ、うちか!』という感じでしたね。男優賞だったら西島さんに代わってなにか言わないといけないし、女優賞だったら三浦さんに代わって、と身構えていました。スピーチを用意するまでではないですが、慌てすぎないように、くらいの心づもりをしていました」
――受賞後記者会見で、「脚本の流れが淀んだと感じたら何度も原作に戻り、短編が収録されている『女のいない男たち』からの要素をピックアップし、自分のなかに要素がインプットされたら一気に流し込むように書くという行程を繰り返した」とおっしゃっていましたが、“流れが淀む”とはどういう状態を指すのでしょうか。
「観客が『なんでいま、これを見てるんだろう?』という気分を味わう状態ですかね。ただ、今作は全体として、なにか停滞している人間の話でもあるので、停滞のなかでも変化を起こし続けることを心がけました。劇中劇のリハーサルを繰り返しているところがあるんですけど、同じことを繰り返していくうちに変化してくる。そのように物語に、常になにか変化が起きるように」
――物語の流れの淀みは、テキストを読んでいて感じるものでしょうか?それともリハーサルや本読みで、セリフに肉声が宿った際に見つかるものですか?
「三段階ぐらいあります。第一段階は執筆者の自分の視点。読み直して脚本の流れを調整する段階で、脚本執筆時の体感みたいなものが反映されているかどうか。この執筆時に淀みなく、流れるように書けたら、その感覚が屋台骨のようなものになります。第二段階は、他者の視点で読んでもらった時。そうすると、自分の身体的な納得のために書いたような部分があぶり出されます。今作の場合、共同脚本の大江(崇允)さん、監督補をしてくださった渡辺(直樹)さんがとても有能な読み手で、アドバイスを多くいただきました。これはなくてもわかる、むしろないほうがわかる、という要不要を、読み手の意見を参照しつつ検討していきます。第三段階は、本読みの段階で役者さんに声を出して読んでもらうこと。役者さんが読みづらそうだったり、実際に口に出してみたら『意図していたように響かないのなら、こうしたほうがよい』と調整していきます」