濱口竜介監督が明かす『ドライブ・マイ・カー』創作の裏側、「村上春樹の長編小説の手法を参考に」
「『ドライブ・マイ・カー』をやりたいと思った理由は、『演じること』を取り扱っているからです」
――3つの物語を併走させる、そのなかに演劇の『ワーニャ伯父さん』を置かれた理由はなんだったんでしょうか。
「原作に書かれていたからです。そして明らかにワーニャは家福と、ソーニャはみさきと対応付けられています。読んでいるうちに、それを意義深く思うようになりました。村上さんも、意識的にかはわからないけれど、その対応関係があってこの原作にこの戯曲のことを書き込んでいるように感じました。そもそも自分が『ドライブ・マイ・カー』をやりたいと思った理由は、『演じること』を取り扱っているからでした。演じるということはなんなのか、未だによくわからないんです。台詞やト書きは脚本家なり劇作家が書いたものです。つまりは役者は基本的に『言われたことをやっている』というのが演技の実態です。役者自身にはそれをやったり言ったりする内発的な理由がない。それが、本当に稀に、信じるに値する演技を目にすることがあります。ある人が、まったく違う人格として振る舞い、言葉を発するのを見て、それを信じざるを得ないような心境になる。このメカニズムって一体なんだろう、それはまだ全然わかっていない。そのメカニズムについて考えたいんだけど、それを商業映画の枠組みでやるのは難しいことです。ただ、原作自体がそれを扱っているので、おもしろい物語を作ることを試しつつ、演技のメカニズムについて考えられる。それがこの物語を選んだ最も大きな理由の一つです」
――今回の『ドライブ・マイ・カー』では、それぞれ役の声の使い方も印象的でした。映像を極める、音響を極める映画はありますが、役者が発する声や発声法、あるいは声を出さないでものを伝えることに着目した作品は、そんなに多くはないですよね。
「声の情報量って、とても多いんですよ。声を注意深く聞き取られてしまったら、その日の体調とか、精神状態みたいなものが、かなりわかってしまうと思います。それは自分がインタビューした経験だとか、こういうインタビューを受けている時の自分の声から感じることなんですけど。つまり演技が基本的に発声を伴うならば、役者自身の状態が常に晒されていることになります。基本的に演技は、ある種の嘘でしかないんで、じゃあ、そのこととどう付き合っていったらいいのか?ということが演出の出発点です」
――海外映画祭に参加されて感じること、外から見た日本映画の現状と課題、そして濱口監督ができること、なにを成し遂げたいかを教えていただけますか?
「恥ずかしながら、まず現代の日本映画をそんなに観られてはいません。なので、現代日本映画の関わりは、自分が作る時、特に商業映画の場合にオーダーされることに対して思うことに限られます。よく思うのは、根本的に時間が足りないということ。フランスの監督にインタビューした時に、とても短期間で作ったと言っていたので『どれくらいだったんですか?』と聞いたら、12週間だと。3か月か…と思って。『ドライブ・マイ・カー』はすべてを合わせて1か月半くらいの撮影日数です。それでもコロナがあって撮影が伸びた結果です。時間のかけ方の違い、ひいては予算のかけ方の違いがあります。現状で自分ができることはなにかと言うと、いるものといらないものを見極めて、大事だと思うものにできるだけ時間をかけます。その実例を作っていくことが一つ。もう一つは、お金と時間の関係に、固定的ではない別の可能性がないかということを模索することです。スタッフやキャストに対し、ある程度時間を使ってくれたことに対して固定報酬ではないやり方、将来的に価値が出てきた時に還元できるようなやり方をもっと採用できないのか、ということを考えています」
取材・文/平井伊都子