濱口竜介監督が明かす『ドライブ・マイ・カー』創作の裏側、「村上春樹の長編小説の手法を参考に」
「小説を映画化するのは、基本的にテキストを一語一語忠実に映像に置き換えることではまったくないと思います」
――脚本を書かれる時や、映画を作られる時に三幕構成は意識されるものですか?開始後40分の位置にタイトルが入り、その後のストーリーは100分、40分と構成が変化しているように感じました。
「いや、三幕構成というのはほぼ意識しないというのが正直なところです。構成を立てるときにもう少し細かく8つぐらいのパーツに分けて考えたりはしますが、三幕構成は、実際に使うには雑なくくりです。あくまで書き上げた時に自然にそうなっているのが1番望ましい、というぐらいです。『ドライブ・マイ・カー』で言うと、少なくとも最初の40分が過ぎると、まったく違う人間関係が始まります。観客は、映画が始まって10分、20分はかなり熱心に情報や人間関係を見立てるための労力を払ってくれるものだと思います。でも、もう一度なんのサインもなしに人間関係を組み立て直すのは、観客にとっても負荷になるだろう、と。前半40分のストーリーからの2年後、高槻以外の人間関係はまったく新しいものになっているので、人間関係を拾い直してもらうための、観客に対するある種のサインとしてタイトルを入れました」
――村上春樹さんの小説を原作にした映画では、2018年にイ・チャンドン監督の『バーニング 劇場版』という作品がありました。短編を元に、濱口監督が持っていらっしゃる要素を足して、そのことによって原作が持つテーマを浮かび上がらせる作りは、『バーニング』にも共通しています。
「『バーニング』はとても優れた作品だと思っています。ただ、村上春樹さんの原作をやると決まっていた時期に、参考になるかなと思って観てみましたが、そんなにはならなかったというのが率直な感想です。単純に、イ・チャンドン監督の資質と僕の資質が全然違うからだと思いますが、自分が監督として持っている技術のようなものを使って、小説がもともと持つ核を発見していくやり方は、僕自身も考えていました。小説を映画化するのは、基本的にテキストを一語一語忠実に映像に置き換えることではまったくないと思っているので。逆に、それ以外にこの小説に迫っていく方法はないのでは?という気がしています」
――村上春樹さんの小説、特にこの『ドライブ・マイ・カー』は、ビートルズの曲がタイトルになり、旧型の外車や演劇といった記号を配置しながら自分の作品に再構築するクリエイティビティへの向き合い方が、濱口監督の作品にも少し通じるものがあるのかなと感じました。
「長編映画にするにあたって、村上春樹さんが長編小説でやられているようなことは意識をしました。村上さんのインタビューを読むのはとても興味深くて、大いに参考にした面もあります。複数の世界が同時に走っているような感じというか。一番わかりやすいのは本作の中にも登場した演劇『ワーニャ伯父さん』です。『ドライブ・マイ・カー』の世界と『ワーニャ伯父さん』の世界、そしてもう一つ、家福の妻の音が紡ぐ物語が同時進行しています。それがお互い世界の見え方をちょっとずつ翻訳し合って、多くは語られないキャラクターの内面まで示唆する。最終的にそれが一致していく、そしてなにか希望のようなところまでたどり着くという、村上さんが長編小説でやられるような手法が、結果的にですけれど、すごく参考になったと思います」