黒沢清監督がカンヌで受賞を逃した理由とは?

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黒沢清監督がカンヌで受賞を逃した理由とは?

カンヌ映画祭も残るところ一日となり、公式上映部門の一つ「ある視点」部門の授賞式が行われた。

一昨年『岸辺の旅』で同部門の監督賞を受賞した黒沢清監督の『散歩する侵略者』は残念ながら受賞ならず、昨年の深田晃司監督の『淵に立つ』に続く三年連続の日本映画受賞の期待は叶わなかった。

黒沢清監督は今回で5回目のカンヌ映画祭ノミネートになり、すでに常連と呼んでいいカンヌ・ベテランである。コンペには2001年『アカルイミライ』で参加しただけではあるが、5回のうち3回受賞しており、カンヌ映画祭側にとっては欠かせない日本人監督のひとりだ。カンヌでよく言われるのは「日本には、河瀬・黒沢・是枝しかいないのか?」という言葉でなかなか新しい監督が現れないことを指摘される。それについて筆者は違和感を感じることがある。そう言っておいて、カンヌが期待する「日本人監督のそれぞれの得意分野」があり、それから外れると受賞はおろか、ノミネートすらしないときがあるじゃないか、という疑問である。是枝は現代物と決めていたり、河瀬は奈良と決めていたり、していないか?ということだ。

黒沢監督の場合、まずはJホラーの旗手ということで『回路』がある視点部門にノミネートされ国際批評家協会賞を受賞した。現代の日本を舞台に、現代的なモチーフを使い不条理な恐怖を仕掛ける、という作品である。しかし「ホラー」というジャンルの作品はアーティスティックさを自讃するコンペ部門にはなじまず、ある視点部門に回されることになる。この、そこはかとない怖さ、社会への不安、未来の茫洋さなどは黒沢作品の基調音であるが、それをどのように奏でるかによってカンヌの評価は異なってくる。そのさじ加減が微妙なのだ。逆に言えば、より黒沢清監督らしいと日本人観客が思う作品は、カンヌではよりホラー・エンターティメントのジャンルとされ、ノミネートや受賞には結びつかないのである。

ではそこで受賞に結びつく要素は何かというと、より普遍化されたテーマとしての死、モチーフとしての家族、ではないか。『トウキョウソナタ』『岸辺の旅』にはそれがある。特に『岸辺の旅』は監督賞というメインの賞の一つで、わざわざ審査員長イザベラ・ロッセリーニが「亡くなった母がずっとそばにいて見守っていてくれている感じがしたのですが、それは本当にあることなのですね」と伝えに来てくれたというエピソードがある。普遍的な「愛するものを失い、もう一度会いたい、会えたならば伝えられなかった言葉を伝えたい」という思いが、死者がそのままの姿で残された人に寄り添っているという東洋的イメージを持って表された、その合わせ技に監督賞が授与されたのだと思う。

その意味で今回の『散歩する侵略者』は、SFやホラーというエンターテイメントジャンルの要素を持つ“黒沢清らしい“作品だが、コンペには入らず、ある視点部門に回された。前回の受賞の余波もあったと思う。しかし今回は地球の侵略と侵略者による体の乗っ取りいう突飛な設定が目くらましになってしまったのではないかと思う。

今回の侵略者というモチーフは現在の日本における、押しつけられている実態の不明確な恐怖の素、という政治的なメッセージがあると思う。それは『トウキョウソナタ』にも描かれていたものだ。が、現在の世界状況、ヨーロッパ・アメリカの差し迫った状況からすると、内向きなものとしてとらえられてしまったのではないかと思う。逆に言えば、日本が世界の国々と同じように差し迫っていることは世界には伝えられていない、と言うことである。

というのも今回受賞した作品はイラン・メキシコ・アメリカのネイティブ居留地を舞台にしたもので、いずれもトランプ大統領になってから大変な思いをさせられることになった地域である。今年のある視点部門審査員長は、アメリカ人女優ユマ・サーマンであることと関係がなくはないと、筆者は思う。

それにしても、もう一つ、一度はある視点賞、もしくはコンペでの入賞を是非お願いしたいと、黒沢監督には望むところではあるのだ。【取材・文/まつかわゆま(シネマアナリスト)】

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